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AとZの接続
改めて序
あなたにとってのAは何ですか?あなたにとってのZは何ですか?序に改めてと付けた私のメッセージ。最後まで読めば、必ずあなたはこの序へ戻ってくる。そして考え、自分に置き換え、接続していく。
A章~エリ~
1 明文二年
除夜の鐘が鳴り響き、日本全国は祝賀ムードに包まれる。私と月音の子は真(マコト)と名付けられ二回目の誕生日を向かえようとしていた。桜が咲く頃には首都東京は『おもてなし』と書かれた横断幕があちこちに掲げられ、オリンピックの準備は順調に進んでいた。空には無数のドローンが飛び交い、東京全体は巨大なフリーWIFIエリアとなっていた。いつでも・だれでも・どこででもをスローガンに通信各社は協力し、またスマホを無料でばら撒き、六歳以上のスマホ携帯率は九十%を超えていた。平成二十九年より進められてきた、働き方改革は勢いを増し、街はAI化が進んでいた。後にこの時代はAI元年とも呼ばれるようになる。大量のリストラが社会では行われ、問題となるが、AIバブルの波に多くの労働者は救われていた。スマホのばら撒きとは一方で、オリンピックに向け、AVRの開発が急ピッチで行われていた。オリンピック開催前にリエノコーポレーションは日本で初の家庭用AVRの販売に成功した。AVRはWIFIとリンクしていて、専用のゴーグルを装着することによりオリンピックをヴァーチャルに、そしてAIが最も興奮する場面を選択して受信する、そうそれは、オリンピックを楽しむ為に開発された最新機器だった。当時、リエノはリストラされた多くの技術者を低賃金で雇いAVRの販売価格に反映させていた。この初期型AVRは税込98,000円で、増税後初のヒット商品になり、流行語大賞にも選ばれた。東京の夜空にはドローンと競うかのように花火が打ち上げられオリンピックは無事閉幕を向えた。
2 独占
本社を仙台に置くリエノはAVRを開発段階で特許申請をしていた。またリエノは初期型AVRの利益で大手通信会社の買収に成功し、WIFI機能付きドローンをも手に入れる。リエノの創業者、影野(43歳)は若くしてメディア王と称された。しかし、金メダルを獲った影野のオリンピックは終わってはいなかった。秋には発売を控えたAVR2の開発に追われていた。AVR2は収納式マイクで音声データを取り込める他、小型カメラで映像を残せる。USBポートを設けることでキーボードと接続でき文字入力に対応、またデータ保存も可能となっていており、実用的にかつ大衆向けに改良されたものだった。大容量メモリを搭載することで無料アプリをダウンロード出来るようにもなっていた。スピーカーにお笑い動画と吹き込むとAIが選んだリストが表示され、その番号を告げると再生が始まる、そういった仕組みだ。しかし、影野には乗り越えなくてはならない壁があった。それは回線だ。AVR2の利用環境の最適はWIFIと考える影野は、スマホを接続してのそれを拒んでいた。そんな時、政府からの連絡で影野はにやりとする。オリンピック・パラリンピックはテロを起こさせず閉幕し、政府のテロ等準備罪・共謀罪は効果を発揮した。リエノは、メディアとしての拡大を期待されるAVR2の利用状況(両罪の判断基準の一部として)を国に提供することで莫大な補助金を受け取ることになったのだ。資金を得た影野は、AVR2の低価格化を実現させ、秋に間に合うよう全国にドローンの発着を管理する会社を設立してみせたのだった。
広島の本社に帰り、記事に率直な感想を綴ったのは、初期型からAVRの開発を倫理の面でサポートし、取材を続けてきた宮野(41歳)だ。「いや正直、彼の実行力と発想は凄いと思いますよ。それが魅力で不可能を可能にする因子が次々と集まってきた感じです。そのスピードに私の倫理は取り入れられることは無かったのが残念です。後は使い方と使われ方でしょうね。彼はとにかくよくしゃべる、発売イベントでも彼の独壇場でした」そう語った。
大きなプロジェクトを成功させた影野はまとまった休暇を取り、「ただいま」そうメイドに告げ、ふぅと一息つき腰かける。線香の匂いが辺りを覆う。しばらくの沈黙の後、「どうだった?何もなかったか?」メイドに尋ねると、「はい、何も問題はありませんでした」そうメイドは答えた。二十段以上はあるだろう階段をゆっくり確かめながら歩を進めていく。コンコンとノックをし「いいか」そう言うと「うん」と返事がある。部屋に入った影野は「学校はどうだ、エリ」と聞くと「楽しいよ、みんな仲良くしてくれる」エリは答えた。「しばらく父さんここにいてもいいかな」「いいけど、なんで?」「父さんおしゃべりだから」「だよね」エリは天使の様な微笑で影野を見た。いつもはおしゃべりな影野もエリの前では無口になってしまう。エリはスマホから伸びたイヤホンを耳にして音楽を聴き始めた。ふと我に返った影野は「最近は何が流行ってんのかな」知らぬふりで言い「何を聴いてるんだエリ」と聞くと「デイ・ドリーム何とかって歌だよ」そうエリが答えた。影野はすっと立ち上がり背を向け「そんなもん聞くんじゃない」そう音楽に勝らないよう小声で言った。また天使のそれで「ん、何か言った?」イヤホンを取り、聞き返してくるエリに「ううん、なんでも」そう言いながら影野は部屋を出て行った。扉の前で、はぁと溜息を一つつき階段を降り、再び手を合わせた。「俺が作ったのはおもちゃか?」影野はそうつぶやいた。
3 影野への期待
明文五年、いわゆる2025年問題を二年後に控え、影野はロボット産業に、その実行力と発想力を注いでいた。一方、AVRの開発から身を引いた宮野は、自身が身を置く広島のサクラ出版より、論本『AIは涙を流すのか』を出版した。影野と同じくバブル時代に少年時代を生きた宮野の本は、AIはアラソイハナクナラナイノカで涙を流すのか?という疑問符付きメッセージで始まる。第一章では、80年~90年代にブレイクしたブラックアウト、彼らが出演した歌番組の様子を取り上げている。司会の男性に呼ばれ彼らは登場する。ノブキが他のメンバーを一人ずつ紹介していく。自分の番が来た時、ノブキはサングラスを外し、「マサヤです」と言った。似てなくもないなと切り返した司会者に、ノブキは「冗談で言うたんじゃ」と非標準語で答える。薄ら笑う他のミュージシャンをカメラは追う。ライブチケット完売の話題では、完売と言ったのは嘘で、あと二千枚残っているとノブキは告白する。司会者は思わず、やりづらいと本音を出す。急にテレビに出た理由を聞かれノブキは「あと六年六か月、出れんつもりです」と言い、カメラはまた薄ら笑いを追う。次にインディーズからメジャーへ売れたことに対して聞かれた時は「インドの方については分からないです」と即答する。最後に国の両親に一言求められ、「アメリカの父と母に」と告げ、歌う前のインタビューは終わる。司会者は総括して「全部肩すかしをくらった、これで歌えなかったら単なるチンピラですよ」と述べ、演奏が始まる。宮野が注目したのが当時の時代背景だ。黒いサングラスという自分を隠すものを外し、ネアカの象徴だったマサヤを自己紹介で使った。自分はネアカではなくネクラの象徴だとブラウン管を通して、皮肉を混ぜ言い放ったのだ。ネアカが標準で正解なら、自分は非標準で不正解なのか?というメッセージを方言で表現する。またチケットの下りでは、ネクラは正直であると告げ、六年六か月はロックにかけることで、ネアカとネクラの関係はいつまで続くか分からないと主張した。と宮野は論じ、ネアカとネクラに分別されていたバブル時代を紹介した上で、意図的なカメラワークやネクラを薄ら笑う場の空気を用いて、メディアのイジメ体質とネクラはネアカにイジメられる関係性を示した。続けて宮野は、歌詞を紹介し分析し、こう結論付けた。ノブキが体現した奇奇怪怪な発言とパフォーマンスは、自分はネクラであると設定する為に必要だったもの。ノブキはネクラ側の立場で、両者が争いではなく、歩み寄ることで共存できないか、そう訴えている。それは単なる平和論だ。ではなぜ私がこの本で今さら、ブラックアウト論をしなくてはいけないのか。AIの判断によりネアカとネクラは差別用語としてインターネットの世界から消えようしている。言い換えれば、AIは、事の良し悪しの分別を、自己の判断で始めている。それはネアカが略されネアと呼ばれる者、ネクラとオタクが合体しネオと呼ばれる者、両者が現在も行っている争いを、解決できる可能性、それを封印しようとしている。このままでは、AIによって歴史という財産は無きものとされ、超現実主義社会を生み、人類は過去から学ぶ事を止め、そして考える事を止める。私がAVRに組み込みたかった倫理は、「考える事」。そんなシンプルな案だったが、実現できなかった。そう「考える事」は人類の特権であり、それを止めた瞬間に人類は人でいられなくなる。再度、問いたい。ネアよ、またネオよ、アラソイハナクナラナイノカで泣けますか?泣けなくてもいい、前に例出したテレビ番組の下りで違和感を感じることができますか?と第一章で括っている。しかし、宮野が語った人類の特権を覆すスピードで影野はロボットを、そしてAVRを進化させていた。
2025年問題は影野にとって追い風だった。日本の期待は宮野の本ではなく影野のAI搭載ロボット、AIRに注がれる。影野のターゲットは農業に向けられていた。3・11以降、今だに立ち入ることができないX地区にAIRの姿はあった。前年より発足した被災地リボーンプロジェクトのリーダーである影野は、「空気を」を合言葉に、AVRの開発メンバーを中心とした技術者を集め、リエノから近い福島県にその拠点を置いていた。AIRにより24時間体制で行われていた土壌の放射能除去作業は半年で成果を上げていた。採取された土はリエノで分析されAIによって電解水を開発、AIRはその電解水が、除去に必要な最も適した量やタイミングを計り、24時間稼働していた。次の半年で、AIRはその土壌に最も適した水を張り、草を抜き、適した肥料や農薬を与え、見事な稲穂を育ててみせた。そして今、影野は少数のマスコミと多くのドローンカメラの前で、収穫された米を、福島県産の茶碗に大きく盛り、漆の箸で程よい量を掴み、そのよくしゃべる口に入れたのだった。その一口は、影野が狙うもう一つのターゲットを飲み込むこととなる。
4 エリと宮野と人に戻る者
皮肉にも、影野が造ったAVRをエリは多用しなかった。幼い頃、両親は離婚し母は影野と再婚するも、交通事故で他界した。妹は母の肉親に引き取られ、今の豪邸には影野とエリ、最新型AIR3台とそれを管理するメイドが一人いるだけだった。
幼いエリは学校で母の死を知らされる。担任の先生は警察から連絡を受け、タバコで毒された肺をゼーハーさせながら、出来る限りの速度で教室へ駆け付けた。エリはその日も、天使のそれで男子、女子隔たりなく、会話していた。そんな平和な空間を引き裂くかのように、先生はエリの手を引き、呼吸が落ち着くことなく職員室へ引き返した。先生はエリの両肩に手をやり、呼吸が落ち着いたのか、口を開きだす。「エリちゃん、お母さんが事故に遭ってね、今ね、警察からね、病院からね、」今度は動揺と同情でうまく話せない先生に、空気を読んだかのようにエリは「分かりました、先生、どうしたらいいですか?」と言った。そのエリの言葉に、さらに動揺した先生は「あの、あれだ、そうタクシーを呼んであるから、あの、分かるだろ私立病院、そう私立病院へ行きなさい」今度は教頭先生に手を引かれるエリ。職員室を出るまでに振り返り「先生、ありがとう」と言い学校を後にした。病室には、息をしている母側の両親と妹。そして息をしていない母。泣くことを止めない妹を、エリはぎゅっと抱きしめ、頭をなでながら、「そんなに大きな声で泣いたら、せっかく寝てるママが起きちゃうよ、だから小さい声で泣こう」と言いエリは大きな声で泣いた。仕事を切り上げ合流した影野も最後の涙を流した。人生で一番主役になれる儀式を終え、エリの母は灰となった。幼くして、依存先を失い、倫理を教わることができなくなったエリは、図書室にいた。今まで外で遊んでいた友達も、エリに引き寄せられるかのように、そこにいて、図書室のルールを破り、エリを輪の中心にして、今まで通り雑談をしていた。そんな空間は、かつてのママ友の、SNSを使った同情というイジメが全世界に発信されることで、崩された。発信は返信を生み、また発信を生む。肯定する者が現れ、批判する者を生む。その争いはじわじわエリを息苦しくさせる。その息苦しさをエリの口からでなく、影野はSNSで知ることとなった。バブル時代を少年として過ごした影野は、怒り狂い、半ば強引に、エリの妹を、エリ側の叔父叔母に預け、エリと二人で仙台に移り住むことになり、その地でリエノコーポレーションを設立させた。妻という依存先を失った影野を突き動かすのは、紛れもなくこの時受けた屈辱だった。そうそれは、自ら掘った落とし穴に自分が落ちてしまった屈辱への復讐だった。
寝室、バス、トイレ、書庫、が一階と二階、それぞれにあり、それをつなぐ長い階段、庭には多目的運動スペース、二人で過ごすには異常に大きい家の二階に、ママに少しでも近いという理由で、エリはいた。AVRを横に置き、今日も音楽を聴き読書しているエリにAIRは言う。「エリ、運動必要、エリ、運動必要」AIRはモニタリングの結果、最適の回答をエリに呼びかけている。もう一台、そしてもう一台のAIRも、電気自動車のそれに似た音でエリに近寄り「エリ、運動必要」「エリ、運動必要」と、それは数年前とは比べ物のにならない自然な声でエリに告げる。エリは「分かった分かった」と笑いながら、外に一台のAIRを連れて行き、ラケットを持たせる。「さあ、テニスで勝負よ、分かる?テニスのルール」エリが言うと「少々お待ちを」とAIRは言い、テニスのルールをダウンロードして「理解しました」そう言った。「じゃあ、行くよ」とエリのサーブから勝負が始まる。エリは最初から全力で勝負を挑んだ。第一セットはエリの圧勝だった。第二セットの開始と同時に「分かりました」とAIRはエリに告げた。AIRはエリのサーブがストレートに打たれ、リターンされたボールをフォアハンドでクロスに打ち返す得点パターンや、それが返された時にネットプレイに出てスマッシュを決めること、ウイニングショットにはバックハンドを使わないことなど、すべての長所のデータを防御に使い、フォアハンドよりバックハンドの方が威力と精度が落ちるなどの短所を攻撃に使い、最適の戦術を実行した。結果、第二セットはAIRの完勝だった。「ああ、もういつもこうなんだから」とエリは愚痴り「最終セットは負けないよ」そう言って、ベンチでAIRが最適とされる水分を口にして、コートに戻ろうとした、その時だった。「そろそろ室内にお戻りくださいお嬢様、食事の準備ができました、それにAIRの充電の時間です」とメイドは言い、「もうそんな時間?勝負はまた今度ね」とエリはAIRに向かって言うと「今度は、上腕二頭筋と大腿筋の筋肉疲労が取れる二日後がベストです」とAIRは言った。エリは笑いながら「そうね」と言い家の中に戻っていった。
AIRが運動後の最適な食事メニューを考えたとも知らず、エリはメイドが作ったワゴンに乗せられガタガタと運ばれてきた夕食を、「うーん、美味しいよ」と笑顔でメイドに向かって言いながら完食した。今日の最適湯温は四十二度です、そう聞いていたメイドは「お嬢様、お風呂が沸きました」と告げ、「ありがとう」と言いエリは風呂場に向かった。脱衣所でガチャと大き目の鍵を掛け、誰にも干渉されない唯一の空間で、はぁーと一息つき、少し汗ばんで匂う衣服をするすると一枚ずつ脱いでいく。シャーと勢いよくシャワーの音が鳴る。椅子に腰かけ、目の前にある鏡に水を掛ける。曇りが取れた鏡に向かって、軽く右へ左へ顔を振る。手には化粧落としではなく、洗顔の泡がとられ顔全体に広げられる。程よくして洗い流す。あぁ、ここのニキビ長引いてるなと独り言を言う。肩まである黒髪は、濡らされ、シャンプー、リンスの順で受け入れ最後にぎゅっと搾られた。ふわふわしたスポンジ状のものは泡立てられ、それよりずっと柔らかい山を登り谷を下る。付けられた匂いや汚れは泡と共に排水溝に流されていく。湯船の正面に埋め込まれたモニターに、一般的な少女が好んで見る、恋愛アニメを再生させ、思いっきり片足を湯船に突っ込む。メイドの耳まで届く大きな声で「あぢー」エリは思わず叫んだ。どかどかと慌てた様子で脱衣所の前まで来たメイドに「大丈夫、ありがと」と平静を装い、水を足すエリ。数分進んでしまったアニメをリロードし、やっと湯船の底に柔らかいものを接地させる。そうそれは学校で話題になっているAVRでは見れないアニメの最終回だった。一話から見ているエリは少し筋肉痛になってしまった両腕を乾かない頭に乗せじっと物語を見入る。最終回の中盤に少年は少女と結ばれる。ほらやっぱりと、破局を予想していた、アニメを途中から見ていた友達にドヤ顔をする。AVRで見れない理由は、エリと同年代の少年と少女の性をリアルに再現したシーンにあった。最終回の後半で、ついに少年と少女は性行為に至る。頭に置かれていた手は、自然とぽちょんと音を立て、水中に導かれる。その指先は、山の頂点と、谷の奥深いところに無事到着し、ゆっくりと動き出す。それはアニメが終わり、真っ暗になったモニターにふと気付くまで続いた。戻ってきたエリは、「あ、忘れてた、そろそろじゃない」と言い湯船から出て、再び鏡に水を掛け、曇りを取り、先に左手を頭に乗せ、右手でカミソリを取る。少し顔を出した命を丁寧にゆっくりと、剃り落していく。死んだそれはぐるぐると排水溝に、流されていった。バックハンドが苦手なエリは「いち」と言い、少し顔を出した命の逆襲を受け血を流すが、それは血を流すことで成仏したかのように、自ら排水溝にぐるぐると流れていった。生理が数日前に終わっていたエリは、この日、白い下着を身に着けた。その上からグレーのスウェットをパジャマ代わりに着て、大き目の鍵をがちゃと反対に捻った。「すいませんお嬢様、熱かったでしょうか」と走り寄ってきたメイドの言葉に「気持ち良かったよ」とエリは言い、二階の部屋に向かって、筋肉痛を感じながら長い階段をゆっくりと、タオルで肩まである黒髪をごしごししながら上がっていった。部屋に戻ったエリはそっとスマホの電源を入れる。意見交換サイトではもうすでにこのアニメについて、賛否両論と言う名の争いやイジメが発生していた。それらを一斉削除し、学校の友達から届いたメッセージを開いて見る、「最終回見た?なんでエリは二人が結ばれるの分かったの?すごいよ、マジリスぺ」とあった。「当たり前じゃん、あの展開で、分からない方がおかしいよ」と打ったメッセージを、バックスペースで、すーっと消し、「今度、一話から見てみたら?そしたら分かるはずだよ」と打ち変え、送信ボタンを押した。そしてスマホの電源をそっと落とした。エリはタオルを首に垂らしたまま、部屋を出て、隣の書庫に行き、ある本を手にした。宮野の『AIは涙を流すのか』だった。部屋と書庫の間にある白くてふっくら柔らかいソファーに、柔らかいそれにきゅっと力を入れ、括れた腰まで深く身を預けた。何分くらい経ったか、充電を終えたAIRが、また電子音を響かせながらエリに近寄ってきた。AIRに「エリ、それダメ、エリそれダメ」と言われ、「あ、そうだね、このままじゃ風邪引くね」と言い、白いソファーからむくっと立ち上がり部屋に入り、「ごめん、髪乾かして、もう寝るね」と言いドアを閉めた。閉まったドア越しにAIRは「エリ、その本ダメ」と言い、「もう寝るね」という言葉を理解し、一階の充電機に戻り「おやすみ」と言うこともなく、モニターレンズになっている目蓋を閉じた。そして自己シャットダウンした。エリは肩まである黒髪を鏡台の前で、ドライヤーを右手に取り、スイッチを簡単に入れ、丁寧に乾かした。ドライヤーを充電機にカチッと戻し、少々乾燥肌の顔に保湿クリームを少し取り、口元を中心に円を描くように塗りこんだ。テニスで疲れた体を、すーっと吸い込む様にベッドは優しく包み込む。エリは電気を消すことなく、熊のぬいぐるみを顎の下にやり、『AIは涙を流すのか』の第二章を読み進める。
宮野は第二章を『インスピレーション~気付く~』と銘打って、「考える事」という宮野の倫理を次の段階へ展開させていく。~風で揺らぐ家 柱の無い家 あなたに似てきた子供達 主がいない家なのに 子供達は待っている 主の帰りを待っている 富士に似たあの山を 私達はいつも見ている 一番で帰ってくるあなたに似せて ただ一言だけ言いたい 寂しいと~作詞作曲:つかもと まり『飯野山』という曲の一番を抜粋した。この曲の大部分が、時代の描写に当てられ、伝えたいことは最後の寂しいという部分に集約されている。十万字の小説に例えるなら、九十五万字が描写で、五万字がメッセージだ。この、時代の描写に終始した小説を、時代背景を知らない若者が読むと、どう感じるだろう。九十五万字という膨大な量の描写は退屈で無意味になり、伝えたかった五万字は同情を引くに留まるに違いない。逆に、時代背景を知る、もしくは学んで考えた者は、九十五万字という描写で涙が止まらず、最後の五万字が、もし理解に難解な内容であっても、自己解釈で満足できる。同情に留まった者と、涙した者は意見した時点で争いを始めるだろう。学び、考える事で防げる争いを何時まで人間は続けるのか?私が言いたいことは読者に伝わっているだろうか?なるほどというインスピレーションは起こっているだろうか?もし起きていないなら、人類はAIにAVRに支配されるだろう。そう、論と言うよりは、説明に等しいこの単純なことに、早く気付いてほしい。繰り返しになるが、この超現実主義社会を生き残るためには「気づくこと」が重要なのだ。
と結んだところまでエリは読み、本をぱたんと閉じ、熊のぬいぐるみを抱き、白い枕の脇に本を置いた。AIRのそれとは違う目蓋をそっと閉じる。眠りに落ちる寸前のエリは「ダメだ」と熊と白い掛布団を蹴り飛ばし、むくっと起き上がり、立ち眩みを我慢し、部屋を勢いよく飛び出す。「歯磨き忘れてた」と言いながら、長い廊下を小走りで洗面台に向かう。ピンクの歯ブラシに白い歯磨き粉を付け、口の中に放り込む。しゅかしゅか左右に右手を動かし「ごのぎなんのぎ、ぎになるぎ」と歌いながら、白いどろっとしたものを吐き出した。
翌朝、「エリ、遅刻」「エリ、遅刻」「エリ、いけない子」というAIRの声でエリは熊を放り投げる。「いけない子とは限らないよー」とAIRにあいさつし、昨日のテニスを忘れて、二十段以上ある長い階段を、肩まである黒髪に微かな寝癖を残し、それを振り乱し、疾風のごとく駆け降りる。「いっちー」エリの口は大腿筋の痛みを代弁する。今日は朝ヨガしなくてもいいよね?寝坊したことで出来なかったヨガを筋肉痛のせいにする。「おはようございます、お嬢様。朝食の用意が」でエリは言葉を制し、「いつもありがとう、でも今日は、牛乳とチョコレートでいいや」少し聞きたいことがあるから早めに出ないと提案し、「分かりました、お嬢様」と会話は成立した。「行ってくるからお願いね」とエリはAIRに言い、ピシャと閉まる、AUTOMOTERの窓越しに手を振った。「それでは」と言ってハンドルを持とうとするメイドに「今日は、スーパーセキュリティーモード、時速20キロの固定で」と言うと「私の運転が、お気に召さないのであれば、今後は」と言うメイドに「いや、そういうんじゃないの、私はドローンWIFIから送られてくる位置情報より、人が運転する車の方が好き。対向車情報で事故は回避出来るかもしれないけど、そこに何か、ほら楽しさというか、うまく言えないけど、それが無いでしょ。」運転免許の持たないエリにとってそれが表現の限界だった。「これよりスーパーセキュリティーモード時速20キロで運行開始します」とAUTOMOTERは人であるかのように言い、立派に走り出した。「今日はね、聞きたいことがあるの」「何でしょう、お嬢様」「昨日、本を読んで気になったんだけど、萌(もえ)って本名なの?」「いえ、萌という名は、ご主人様が付けて下った名前です。萌は、定義することが難しい感情の一種で、好意的に使われることもあれば、逆もあるようです」「なんで萌なんだろうね?あ、それと、本名は?」「本名は碧衣(あおい)です。」「へぇー、そうなんだ、素敵な名前だね」「そうでもありません。お嬢様、ネアとネオをご存じですか?」「本で読んだことあるし、クラスでも言ってる子がいるよ」「ここに来る前に、私は多数のネアからイジメを受けていたのです。名前が碧衣、それは蒼き衣を纏った者であり、蒼き純粋な心を衣として纏い人生を力強く歩んでいくという両親の希望を、ネアは、私がAVRを持ってない事を理由に、青く暗い衣を纏ったネオだと踏み躙ったのです。そのイジメは全世界に発信され、私のプライバシーは崩壊し、罵声は永遠に鳴り止みませんでした。自殺を考えた私に、死ぬ前に家に来ないかと旦那様からSNSで言って頂き、今に至ります。そしてメイド服を与えられ、旦那様は萌として生きてみなさいと言いました」ふと我に返った萌は「申し訳ありません、お嬢様、余計な事まで話してしまい、メイド失格です」と早口で言った。「余計じゃないよ、じゃあ、今から私は妹だから」「はあ?」思わず言ってしまった萌に「私、妹と離れ離れになっちゃったの、だから妹の気持ちが分からない。だから私が妹。そして碧衣姉さん。3つ上だし、いいでしょ?」「しかし旦那様に知れたら」「いつも家に居ないんだし、帰って来た時だけ、萌とエリ様、居ない時は、碧衣姉さんとエリ、それでいいでしょ」「目的地に到着です」AUTOMOTERナビゲーションシステムは二人の会話を引き裂いた。ウィーンとドアが開き地に足を着けたエリは「行ってくるね、碧衣姉さん」と天使の様な笑顔で手を振り、技術の塊の中にいる碧衣から離れて行った。プライバシーを堅守するかのように小高い山の頂に建てられた豪邸。そこから木の数が程よく少なくなる県道と、国道の交差するまだ傾斜が残った所までエリを送り、帰りの山道で碧衣は、自然に暖かい涙を流していた。冷たいそれではなく、暖かい涙を、エリは碧衣に流させメイドから姉という人間に化学反応させていた。
その頃、学校に着いて友達に囲まれエリは、「おはよう」と言い、遅刻を免れていた。一時間目、いつもは簡単に解ける数学の公式が、ただの記号にしか見えない。狂いなく並べられた席を前から後ろ、左から右を何度も目で追い、ちょっと近くない?いや、いつもと同じなはず。でもやっぱり近い気がする。手の平ほどの隙間が開けられた、綺麗に汚れが拭き取られた窓ガラスの脇から、残酷にも吹き込まれる風に、靡くシャボン玉かのように、エリの心はふわふわ漂っていた。遅刻しない為に、寝癖が残った肩まである黒髪を乱し、学校まで走って来たエリは、汗ばんでいた。教師は、全員の名前が表示してあるタブレットに、シャボン玉を割るかのように、ペン先を槍に変え、エリの名前を突き刺す。エリは正直に分かりませんと入力送信すると、全員に共有されたその回答は、全体の六割の笑いを誘い、三割の同情を引いた。笑われたエリはさらに汗ばんだ。ブーっと、授業を止める音がする。エリは、そわそわした事を悟られぬように、ゆっくりと多目的スペースに入る。プシューっとすることで、二時間目からは、いつもの距離感は保たれ、風は本来の心地よさを取り戻し、教師の投げた変化球も長嶋か王かのように、バックスクリーンに打ち返した。カーブ、スライダー、フォーク、チェンジアップ、もちろんストレートにも三振することなく放課後を向かえたエリに、友達が話しかけてくる。「エリの言う通りだったよ、見たの、エリのメールの後、一話から三話。そしたら、最終話で二人が結ばれた意味が分かったの。見方も変わっちゃって、泣いちゃったよ」と笑顔で言うのは、昨日のメールの送信者。昨日、エリがバックスペースで消した「あの展開で、分からない方がおかしいよ」というメッセージをようやく送信すると「そうだよね」と返信された。「にしても、最終回ちょっとエロくなかった?」エリはそう聞かれ「気持ち良かったよ」と答えた。その会話に「何?気持ち良かったって」と、誇らしげにAVRを少しずらして、おしゃれを気取る男子に声を掛けられる。「あ、それ学校に許可出してるの?」と友達は聞いたが、無視られ、「ね、エリ、デートの話はどうなってるの?」と聞いて来られ、エリは「それで、前というか、私見えてるの?帰ってやってみよう」と言うと「またかよ」とシラケ面で男子はその場を去って行った。友達は「あいつ懲りないね、きっぱり断ったら?」と言うとエリは「私もあの人の事を知らないからね」と答えた。首をひねって「何それ」と友達が聞くと「インスピレーション」と笑って答えた。学校を出てすぐに連絡すれば丁度いいタイミングになる。「碧衣姉、今出たからね」「分かりました、お嬢様」「えーと、電波の状況が悪いみたーい」「えっと、聞こえますかお嬢様」「聞こえなーい」「一旦、切りますね」「じゃあ、交差点でね」双方スマホの電源を切り、大丈夫かな碧衣姉、大丈夫でしょうかお嬢様、とズレた共鳴をし、二人は約束通り姉妹になった。
スーパーセキュリティーモード時速40キロ固定を確認しました、とAUTOMOTERに言わせ、先ほど契約したばかりの姉妹は、今まで無かった会話で、少しずつ距離を縮めていく。「エリ様、今日の夕飯は」「んー、そのエリ様ってどうにかなりそうで、どうにもならないのかな」「そうですね、私も考えていたのですが、一番これがしっくりくるかと」「ま、いっか、私が妹のつもりでいられたら」「はい、それで今日の夕飯ですが」「はいはい、またAIRの考えたメニューでしょ」「え?お嬢様、いやエリ様、知ってたのですか?」「うん、なんとなくね。私の顔にニキビが一つなんておかしいでしょ?それに、父さんがやりそうー」「なるほど、旦那様が言う通り、エリ様は不思議ですね」「父さんが何か言ってた?それより碧衣姉、帰ったら夕飯作りよ、姉妹は家族だから手料理ってやつ、食べるの」碧衣は嬉しくなって、思わず笑顔で「はい、お嬢様!」と言ってしまった。目的地に到着ですとナビゲーションシステムにそう伝えられ、二人は目を合わせ、「早いです」「はやー」とまた一歩、姉妹に近づいた。エリは調理場で、あっちの棚の中や足元の引出を開けたりでバタバタ、バタンバタンとドタバタしていた。その音に碧衣は食卓でポツンと座り、「エリ様、手伝いましょうか」と言うが、エリの週二回掃除される人より少し多き目の耳には入らなかった。「ぼんぼんぼんどこにある」と替え歌を口ずさみながらエリはおぼんを探していた。その時間は、AIRの提案した最適のメニューを読取り、食材を投入すれば、内蔵された切断機、鉄板、圧縮機などで、最適の栄養バランスになるように厚さ、調味、温度、時間を採用し完成させる、AI搭載大型調理機の電源をバチンと切り、手の平が入るかどうかのボールに3つの卵を割り、目分量で塩コショウを入れ、菜箸でシャカシャカかき混ぜ、目分量で油をひいたフライパンに、一気に流し込まれ、歪に丸められた卵焼きを冷ませていく。「あったー」と碧衣にも充分聞こえる声量で、おぼんは、ワールドカップで優勝したチームのキャプテンの様に、両手で頭の上に掲げられた。食卓には既に準備されている、仕方なしの雑穀米と、味噌汁、そして碧衣の空腹。周りには三体のAIR。そのいつもの不成立を不思議と成立させるかのように、一つの白いお皿に、茶褐色で冷えた卵焼きを乗せ、さらにそれを大事そうに、おぼんに乗せ、「おっと」と便利な道具の電源コードに躓きながらも、食卓までエリの笑顔で運んだ。にこっとする碧衣に、「見てた?」とエリが言うと「見えました」と碧衣が答える。「あんなとこにコードあったっけ」と言うエリに碧衣は「え?」と考え、「そうじゃなくて」と続けようとしたが、「手を合わせて下さい」と妹に下から制される。ヨガのポーズかのように姉妹は手を合わせ、少しタイミングがずれたが、笑顔で「いただきます」と古い儀式を済ませる。ちょろちょろと黒い液体は少しずつではあるが、円を描く。「二周も三周も」と自分にツッコミながらエリは、「やってみたかったんだよね」と言い、碧衣は「それ言われたことある」と、くすっと笑う。少し剥げた漆の箸で、めりっと、暗い衣を纏って赤褐色になったそれを、一口で食せる大きさにして、碧衣は咀嚼する。「どお?」エリが心配そうに聞くと碧衣は「あったかい」と言った。萌っとしたエリは、同じ大きさの冷えた卵焼きを食べ「冷たい、しかも醤油の味しかしない」と本音を洩らす。エリは一切れだけ残った卵焼きを碧衣に気付かれぬように手元に引き、食事と会話を楽しみ、その空間は何度か「はははは」と同室しているAIRには出せない笑い声に支配される。二人は「ごちそうさま」と言い、碧衣は片付けに取りかかり、エリは影野が帰宅した時、一番に立ち寄る部屋にいた。
拳の大きさの皿に乗せられた、一切れの卵焼きを、影野が火を付け匂わせる、それよりママに近いところへ置き、目を閉じる事無く、二人言を言う。「いつ振りだろう、久しぶりだね」「元気にしてた?って言うんでしょ?」「うん、元気だよ」「どうしたのそれ?って言うんでしょ?」「これね、お姉さんに作ったの」「お姉さんができたの?って言うんでしょ?」「そうだよ」「父さん再婚したの?って言うんでしょ?」「してないけど、いろいろあってね」「いろいろって何?って言うんでしょ?」「いろいろだよ」「そっかって言ってくれるんでしょ?」「父さんの分、ママの分、妹の分、3つ卵を割って作ったんだけど、碧衣姉がたくさん食べたから、ママの分はこれだけになっちゃった」「おいしくできた?って言うんでしょ?」「ママみたいに上手く作れなかったよ」「教えようか?って言うんでしょ?」「大丈夫、見てたからね」「料理は卵に始まり、卵に終わるって言うんでしょ?」「うん、まだまだこれからだよ」「おいしいって嘘を言うんでしょ?」「本当においしいよ」「またそうやって誤魔化して」「誤魔化してないよ、本当だよって言うんでしょ?」「本当だよエリ、ありがとう」「言っとくけど、本当においしくないからね、冷たいし、でも何か、ありがとうママ。今度はいつ会えるかな、またね」と言ってエリは部屋を出て行った。
エリは忍者のごとく、忍び足で片付けしている碧衣の背後に近付き、両の手の平を程よく開き、「わぁっ」と言い、エリのそれより、一つカップが上の、暖かく柔らかく、そして優しい脂肪の塊を、優しく鷲掴みにし、背中にニキビのある方の頬っぺたを押し当てた。碧衣は「え、え?」とプチパニックになり、思わず、振り向く拍子に虹色の泡をエリのニキビの無い方の頬っぺたに飛ばしてしまった。虹色の泡を付けたまま、エリは「手伝うよ」と言ったが「後は、食洗機にお皿を入れるだけだから」と碧衣は感謝を表す。「なんで今日は?」とエリが白い皿を手洗いする碧衣に聞くと、碧衣は「なんででしょう」と言い、虹色の泡と一緒に、ネアの欠片とその黒い唾液を、ぐるぐる回る排水溝に流していった。エリは頬っぺたの虹色の泡を、肘と手の甲の間の少し骨ばったところで、拭い取る。その時、臭覚は、食洗剤のシャボン玉の香りではなく、エリの汗の匂いを感じ取っていた。「碧衣姉、お風呂入るね」そう言って、エリは脱衣所の大きな鍵のガチャという金属音を立て、それを聞いた碧衣は、いつもの様に、ごーっと叫ぶ換気扇の下にいた。
食事前に、いやそれ以前にエリが開けたかもしれない引出しの奥から、いつもの青いライターと青いパッケージのタバコを出し、プチンと死のフレーバーを弾かせてから、そっと火を付ける。咥えたタバコの先の火の熱で、風も無いのに揺らぐ空間。局所的に密度の異なる大気が混ざり合うことで光が屈折して起こる、現代科学では遠い昔に発見された陽炎という現象を、碧衣は初めて発見する。「私の人生も捨てたものじゃない」と言い、まだ八割残った青いパッケージのタバコと青いライターをゴミ箱に捨て、生産性を保った。時を同じくして、エリは風呂場でシューと音を立て、ブルっと身震いさせていた。「今日のお湯加減はどうでした?」碧衣が聞くと、「今日はバッチリだったよ」と肩まである黒髪を白いタオルでごしごししながら言い、続けて「碧姉、ミウク」と言った。さらっとした白い液体を一気に飲んだことで、出そうになったドロッとした液を、我慢はできたものの、保険で、広げられた手の平は、顎の下へ添えられていた。「ねえ、碧姉、飯野山って曲知ってる?」エリの問いに「名前は知ってますよ、でも内容はよく知りません」と碧衣に言われ「そっか」と言いながら、右足を軸に、湿気を含んだ黒髪を四方に打てる大砲の様に広げ反転し、二十段以上ある階段を、今日は軽快に、鹿のように跳ね上がっていった。鹿に遅れてきたAIRに「おやすみ」と告げ、部屋に入る。AIRの電子音達が遠ざかり、エリは乾燥機で大砲を、肩まである黒髪に戻した。
約束した手前、前に二人言を言った以来AVR2を装着してみる。鏡台に向い少しズラして自分の顔が映された姿を見てみる。最近、手入れを怠っていた、新しい命が芽生えだした眉毛から上方が見えた。心の中であの男子を思い浮かべ「よし、明日から眉毛マニアのマユと呼んでやろう」と自己解決した。ふぅーと息を吐き、マイクを牛乳の匂いが微かに残る口元にセットし「起動」とドヤ顔で言うエリの声に「音声データ確認、記録済データと照合中、適合、取得言語でのスタンバイ、オッケー」ベースワールドが目前に広がり「続けて網膜データの記録を行いますか?音声データと網膜データを組み合わせることでセキュリティーレベルを上げることができます」とスピーカー越しに言われ「ノー」とエリが言う「取得言語の変更を確認、言語を変更しますか?」と揚げ足を取られムッとした声で「い、い、え」と言うと「認識できません」と言われ今度は呆れて「いいえ」と言うと「現在の言語環境を続けます、網膜データスキャンはいかがしますか?」に戻れたので「ええわ」と言うと「現在の言語環境では判断できません、YESもしくはNOで答えてください」とツッコまれ「はいはいNOです」と言うと「網膜スキャン準備状態を終了しました、お手数をお掛け致しました」と言われ、ムッとするエリを笑うかの様に、目前の無数のアプリはアップデートされていく。思わずエリはマイクを乾いた手で包み、「ていうか、何なの?い、い、えはダメで、ええわもダメで、はいはいNOはOKなの?」と、沸いていた怒りも、自分でも訳が分からなくなり収まった。う、うんと咳払いし、包まれていた棒状のものを開放し、「検索、飯野山」と言うと、美しい夜の山が映し出された。ん?自分の吹き込んだ音声データが悪かったと反省し、今度は「検索、飯野山曲」と吹き込むと「該当の曲はありません」と返答され「うそ」と思わず声に出してしまった。「嘘は危険因子ワードです、それでも検索を続けますか?」と言われ「いいえ」と躱して、キーボードに刺さったままのケーブルのもう片方を、マイクの付け根に差し込み、「文字入力モードに変更」と言い、今度はキーボードに「飯野山曲が検索出来ない」と入力検索すると、赤い文字で(ANS:検索履歴回数)と表示された。数分間、考えた。そして「AVR2影野」と入力した。「AVR2PR影野」と題された1を、無数に並べられた1以外から選び、動画を再生させた。そこには、いつのも父さんが、いつもの顔で、見たことあるような、見たことないような、笑みを浮かべ、その口元から声帯を震わす音を出していた。「ようこそ、AVR2の世界へ。AVR2は収納式マイクで音声データを取り込める他、小型カメラで映像を残せます。USBポートを設けることでキーボードと接続でき文字入力に対応、またデータ保存も可能となっていており、実用的にかつ大衆向けにAVRをベースに改良されたものです。大容量メモリを搭載することで無料アプリをダウンロード出来るようにもなっています。スピーカーにお笑い動画と吹き込むとAIが選んだリストが表示され、その番号を告げると再生が始まる、そういった仕組みで、笑いたいという欲求は瞬時に解消されることでしょう」と発売PRと初歩的な利用方法を伝える二年以上前の動画だった。高速で零と1が点滅するカーソルは次なる欲求を欲している。そのおでんを、ぼーっと見つめ、一口で咀嚼するかのような勢いで、人気曲と文字入力し、串が折れたおでんを鍋に押し込む。鍋の中では、温泉に浸かり、頭に絞られて長方形の角が無い形に象られたタオルを乗せて、女湯の微かな物音を楽しむ、歌謡曲を口ずさむ男ではなく、最近友達と、マユに誘われて行ったファストフード店で、ハンバーガーとポテトを食べ、牛乳を飲み干すまでに、二回も流れていた曲を歌う、成長に合わせてサイズが変化する機械仕掛けの、赤いスニーカーが、トレードマークの男がいた。少し剥げた漆の箸を、赤褐色になった冷たい卵焼きを完食することなくそっと置き、鏡には新しい生命が誕生している眉毛より下にある、キラキラした眼を映していた。その眼で、無理に引き上げた口角を見たエリは、右手の人差し指の第二関節付近で、すらっとした鼻の下の二つの穴に添え、くいくいとやる。碧衣も、エリの肩まである黒髪の一人が泳ぐ暖かい水の中に、完全に防水された青いスマホを見て、取り戻したばかりの眼の下を右手のそれで、くいくいとしていた。
碧衣はエリとの通話以外に役割を果たしていた、極度にアカウント制限されたメッセージボックスを、久しぶりに開いていた。そこには、今まで無色無温にしか感じられなかった、一日交替で父と母が送ってきていたメールが不思議と、今日はいい天気だねの件では、空の蒼さを感じ、夕日が綺麗だったよの件では、その淵を陽炎でゆらゆらさせるオレンジ色の太陽を感じることができた。二人が一番多く送っていた、元気ですか?の件は、未読マークという涙を流し連なっていた。碧衣はすべての涙を拭い、大量の元気ですか?の件の父の一通に「ありがとう」と、母の一通に「元気になれたよ」と一言ずつ違う返信をした。
「イタキモチイイ」とAIが理解できない言葉を発しながら、少量の出血を伴い、芽生えた新しい命を、毛抜きで葬っていくエリ。整えられた眉の間に皺を寄せ、皺の無い白い布団に入り、熊のぬいぐるみを顎の下に置き、片付けなかった宮野の『AIは涙を流すのか』を開いた。第三章の『油性ペンと水性ペン』という皺を作った原因を読み始める。
広島には、地元に製造工場があるメーカーの車が、AUTOMOTERでも外国のスーパー電気自動車でもなく、その小さな車体が直進車線に多く並ぶ。超現実主義社会である現在でも、交通事故を起こしてでも、何故か地元の車のハンドルを、県民は好んで握る。ノルマ未達成の従妹から頼まれて購入した車も走ってるかも知れない。しかしそれでは解決できない都市伝説が確かに起こっている。その伝説の正体は愛着であり一種の思いやりだ。昔、このメーカーの社長の苦悩を取材したことがある。その時の社長の言葉が、題目にある『油性ペンと水性ペン』だった。社長は、オートライトを標準装備させるか、オプションのままに留めておくか悩んでいた。取材中、どう思うか聞かれた私は、「当然、採用じゃないですか」と安易に答えてしまった。「そうか」とぽつり言った社長は応接室の普通の椅子から立ち上がり、ホワイトボードに向かい、水性ペンで[おーとらいと]と書いて、私に湿った雑巾を手渡し、「申し訳ない、消してくれるか」と言った。「はあ」と言い私は簡単に[おーとらいと]を消した。すると社長は、再び[おーとらいと]と水性ペンで書いた。そこで普通の椅子に腰かけ、「宮野さん、私が言いたいことが分かるかね?」と言うので「はあ、水性なので、すぐに消せるということでしょうか」と答えた私に「さすが、宮野さん、これだけの条件でよく理解してくれました」と言われたが、褒められた気がしなかったのと、平仮名で書かれた意味が頭の中で解決されず、つい「何が言いたいんですか?」と言ってしまった私に、社長は「宮野さんはどうか分かりませんが、私はね、赤信号で止まった時、前に車が止まっていたら、ライトを消すんですよ。前の人が眩しく思ったらいけないと思ってね。自分を良い人とは言いませんが、何かね、思いやりというか、そういうのが働いてしまってね。だから悩んでるんですよ。そりゃ、安全・便利を追求し、技術という現実主義を貫きたい。それを多くのユーザーも望んでいるだろう。しかしね、技術でね、思いやりという心を人は失ってしまうんじゃないだろうか。そう思えて仕方がないんだよ。そう、昭和のね、あれだよあれ。だから、あえて平仮名で書いたんですよ。宮野さん、もう一度、消してくれませんかね。」と言った。何も言えず、固まる私を見て、社長は「社長だったら油性ペンで書かなくちゃいけないんだけどね」と寂しそうに言った。技術は、思いやりという感情さえも封じ兼ねない。言い換えれば、超現実主義社会において、進化する技術だけ見ると、歴史は影になる。足元のスタートラインが前に進むと、自然と人は、進んだそこに自分のスタートラインを油性ペンで書き足並みを揃える。そして後ろに残った人を見て馬鹿にする。後ろに立ち止った人は、思いやりという感情を持つが、前の人に馬鹿にされる為、さらに後ろの人を馬鹿にするようになる。マラソンで言えば、ほんの数メートルという僅かな違いででもだ。日本文化では、「おもてなし」と歌い、オリンピックが開催されたが、後ろに困っている人がいれば助けてあげる「思いやり」と共に、もう失われつつある。後ろの人に手を差し出し、少しくらい後退してもいいじゃないか。スタートラインを書き変えることが出来たなら、またそこがスタートラインになるのだから。そうここで私が言いたいことは、「変えること」だ。第一章で挙げた「考える事」で後ろを見て、第二章で挙げた「気付く事」で困っていると判断し、ここで挙げた「変える事」で手を取り合うことにならないだろうか?今の超現実主義社会でAIに思考を奪われない為に、この三つのK、『3Kの倫理』が必要ではないだろうか。この3Kを怠った者は、思考や倫理のみならず、次第に、傷付いた者から目を背けることで視覚を失い、助けてと言う声に耳を傾けず聴力を失い、イジメの匂いを嗅ぎつけることで嗅覚を失い、イジメを味わうことで味覚を失い、差し伸べられない手は触覚を失い、古来より外界を感知する為の感覚機能といわれる五感を失うだろう。私が若い頃、告別式に参列した時の事。喪主の方の悲しい表情で、事前に調べた、決まったセリフを忘れてしまった。しかし、セリフなど必要なかった。深くお辞儀をすることで、気持ちは伝わり、涙してくれ、また私も自然と涙が出た。五感にプラスされた感覚を、お辞儀の国の人は持っている。しかし、将来、ヘッドライトを消すことを忘れる様に、お辞儀をすることも忘れてしまうだろう。そんな危機感を感じる私は、衰退が進むテレビで、毎日のように目にする、自称オネエ料理研究家のポエムさんの元に足を運び取材した記事の一部を紹介しよう。赤と青の混じった紫色の洋服を身に纏い、意外にも深いお辞儀で、向かえてくれた。「取って食いはしないから、肩の力を抜いて始めましょ」確かに緊張していた私は、それが解れた。「聞きたいことはLGBTの事?」と先手を二度も取られる。「では、そこから」「ではってなによ、まあいいわ、みんなそうだから、私は体が男性、心が女性のLGBTよ」「はい、それは存じています、私が今日、聞きたいのは、料理の前と後にするお辞儀の意味、ポエムという名前の意味、テレビに出る理由の3つです」「いっぺんに言ったわね、じゃあ私も一度に答えるわよ。まずはポエムという名前について。ポエムは詩でしょ。ミュージシャンは自分が主人公の小説を詩に込め歌にするように、私は料理でそれをする。つまり、私の歩んできた、人生を食し、味わってもらう。それに対しての感謝のお辞儀ってわけ。私はLGBTであり、悩んだり、イジメられたりもしたわ。でもそれをオープンにした時、認めた時、世界が変わったの。汗をかいてメタボに抵抗するおじさんの気持ちも分かるし、汗をかいて匂いを気にする少女の気持ちも分かるの。男の腕力は、固い南瓜をレンチン無しで切り、女の感性はそれを繊細な味付けで煮物を作る。私が作る料理はそんな感覚を具現化したもの。あと、テレビに出るのはイジメられの需要がまだあるから。それと、料理家として、やりたいことがあってね。女性が作る、男の料理。え?じゃないわよ。その名の通り。今ね、料理家は儲からないの。アプリに南瓜料理って入力したら何ページ出てくる?しかも醤油は小さじ1、みりんは小さじ半分、砂糖は大さじ1、それを弱火で二十分とか、正確に載ってるじゃない。結果、同じ見た目で、同じ香りがして、同じ味がして、同じように箸が伸び、美味しいと同じ声が上がる。六感的な話になっちゃうけど、私はLGBTとして、料理家として、技術で失われようとしている、男の料理を作りたいの。今日は暑かったし、みんなたくさん汗をかいただろうな、だから塩を多めに入れて、とかね。汗をかいた妻は美味しいと言い、クーラーの下で震えながら勉強した息子は塩っ辛いと言うかもしれない、でもその変化を感じる事が重要なんじゃないかな。でなきゃ、命を繋ぐ食という行動は、食文化は、貧祖になっていく、そんな気がするの。そうなったらもう完全に私は無職よ」と述べてくれた。超現実主義社会は、また足元の技術だけに溺れる者は、3Kを失うことで五感、六感を失い、食まで失う可能性があるとポエム氏は訴えていた。
「南瓜の煮物かぁ、最近食べてないなぁ」と言い本をパタンと閉じ、熊と掛布団を二日連続で蹴飛ばし、二十段以上ある階段をねずみのごとく駆け降り、どこにいるか分からない碧衣に向けて聞こえるように、大きな声で「碧姉~、明日は南瓜の煮物ね~」とエリは言った。意外と近くにいた碧衣は「は、はい」と普通の声量で言った。ねずみは「夜食、夜食、夜食ったら夜食」と歌いながら、嗅覚を駆使して進んで行き、周りをキョロキョロ目視した。ピンとした耳には競争相手の足音はしない。「もうごちそうさましたよね?」と言い、少し白い部分が出てきた爪のある指は、赤褐色の一欠片を口に放り込む。「ん~、ママ作り直したの?」と言うが返事がなく、「美味しかった?」と聞くと「美味しかったよ」とママに褒められ、ねずみはエリとして碧衣の前にいた。「ね、碧姉、飯野山聞きたい」と言うと、碧衣はこれでしょと青いスマホを差し出し見せた。思わず「へ?」と言い、「負けるもんか~」と言いながら、二十段以上ある階段をオリンピックの短距離選手のように駆け上がって行った。また定位置に着き、白いスマホでマユからのメッセージを右スワイプで消し、ヒットする飯野山に、「おぉ~」と言った。碧姉ナイスと心で言いながら、三件の内の一件をタップする。そのテンションとは逆のメロディーが流れ、九割五分の描写と残りのメッセージを六感する。姉が出来たことや、久しぶりにママと話したこと、友達やマユとの会話、料理したこと、社長さんやポエムさんとの出会い、今日起きた色々な事で、バリ4より遥かにバリバリいっているエリのアンテナは火花を散らし飯野山を受信していく。戦争を知らなければ、飯野山も知らない、エリの目は、当たり前のように、暖かい涙を蓄え、熊のその付近に一つまた一つゆっくりと、熊が泣かないよう優しく落下させた。喉が渇いていた熊に、少々塩っ辛い水分を分けてあげた後、エリは洗面台で、ながらスマホしていた。ピンクの歯ブラシに白い歯磨き粉を付け、口の中に放り込み、しゅかしゅか左右に右手を動かしながら、マユのメールを見て、白いどろっとしたものを吐き出した。「明日、学校昼までだから、終わりで、モール行かない?」改行し「二人で」の文字の後にハートマークが飾り付けとして点滅していた。「トランポリンしてもいい?」と返信すると、待ってたかのように、うがいをするごろごろに電子音が割り込んでくる。「え?あのでっかいやつ?やだよ、恥いし」と返ってきたものだから「じゃあ、あげない」とエリは送り返し、白いタオルで乾燥しがちの口元を労り拭った。書庫を横切り、ソファーの前あたりで「何だよそれ、意味分からん」と表示されるメールを見て、大きな溜息のような音を立て、ソファーに蹲る。「今日はもう寝るよ、おやすみマユ」と送り、苛立ちを吐き出すかのように「碧衣よ、おやすみ~~」と言い、今度は枕を枕にして、熊を盾に、「マユって何だよ」という反撃を防ぐ。「あー、長くなるから明日モールで話すよ」と送り電源を切った。
部屋の電気を切ったこと、目蓋を閉じたことで暗くなり、眠れる環境を整えたが、スマホの電源を切ったことで、心の準備が整っていない。眠れない時間は焦りを生んだが、安らぎは与えてくれない。何に焦っているんだろう。何で眠れないんだろう。エリは分かっていた。分かっていたから眠れない。負けを認め、スマホの電源を入れ、当然のように返信されたメールを開く。「え?いいの?」という予想外に短いメールに「勘違いしないでよ」と返信し、寝る準備ができた。エリは宮野の3Kを考えながら、碧衣は南瓜の煮物を考えながら、そわそわしたが、次第に深い眠りにつくことができた。
股を大きく開き、体の前で足を組み、手は空に向かって開き膝の上にそっと置く。頭の上から引かれるように背を伸ばし、鼻から大きく息を吸うと同時に、お腹を膨らます。鼻からゆっくり吐き出しながら、お腹を引っ込める。呼吸を続けながら、一昨日の夜に整えられたところを全開にし肩を回す。碧衣より1カップ小さいものの、羨まれる大きさの脂肪の塊を持つエリは肩こりに悩まされ、始めたヨガを、朝に十分だけ続けていた。そんなエリは座った瞬間に、その日の体と心の状態を感じ取ることができるようになっていた。その日は座った瞬間に、違和感があった。一つはテニスで疲労した筋肉が回復した心地よい違和感。もう一つは、肩を回す時に呼吸が乱れ集中できない違和感。一旦、目を開け、再び目を閉じ、集中を試みるも、腕が上がった瞬間に目を開け、新しい命が誕生してないか、確認してしまう。右を確認して、左を確認する。呼吸を整えようとするが、今度は右の皺を伸ばして確認、そして左。そうこうして十分は過ぎた。AIRに「時間です」とドア越しに言われ、その違和感から解放される。いつものグレーのパジャマの代わりが、肩まである黒髪を向日葵の様に開き、いつもの白い上の下着に戻り色映えがする。寝る前に用意した服に着替えるが、エリが好んで着るいつもの服にあるものが、今日の服には無い。白い下の下着はいつものパンツで隠される。鏡台の前で、ニキビが治ってないことを確認し、一瞬、化粧ポーチに手が伸びるが、昨夜の最後のメールが頭をよぎり、倍のスピードでその手を引っ込める。シューと一日中、長持ちする殺菌作用のある霧を噴射し、本体をいつものカバンに忍ばせた。寝癖が付いていない、肩まである黒髪を、戦隊ヒーローのマフラーのごとく、風靡かせ、二十段以上ある階段を駆け下りる。「おはようございますエリ様」の、まのところくらいで、喰い気味に、「碧姉、おはよう」と挨拶した。いつもエリを見ている碧衣にとっての違和感は、その挨拶ではなくて、服と雰囲気にあった。AIRでは見抜けない違和感を碧衣は感じ、つい「今日も牛乳とチョコレートにしましょうか?」と言ってしまった。「なんで?」と聞くエリが普段と変わらないことを確認した碧衣は「いや、なんとなく」と、またAIRでは言えないことを言った。「なんとなくじゃないよ、今日から~、あ、お、ね、えの手料理でしょ、早く、朝の空腹に沁みる~って気持ち、い、い、た、い」碧衣は右手を口の前にもっていかずに、白い歯を見せ、AIRが三体共、こっちを見るくらいの声で笑った。その笑顔に、エリは「だって、いい香りしてたもん」と、エリのそれで返した。洋風から和風に変えられた朝食は、口の中に残っていながら、同時に「美味しいね」とか「朝にこれ最高」とか、作法が成っていない、美味しく食べる作法を生んでいた。その楽しい空間は、和食でありながら、碧衣の六感が準備した白い飲み物を、最後に取っておいたエリのごくごくと飲み喉を鳴らす音で閉じていった。洗面台でピンクの歯ブラシに白い歯磨き粉を付け、いつも以上に時間を掛け、歯を磨いたエリは、碧衣がハンドルを握るAUTOMOTERに乗って、いつもの交差点に着いた。AUTOMOTERを降り、ゆっくりと自動で閉まるドアの隙間に、「碧姉、今日の合流地点は、ここじゃないく、あのコンビニね、それとその服以外で来てね」と少し早口で言った。天使の笑顔で手を振るエリは、碧衣も笑顔で手を振り返してきたことで了承したと確認した。
走ることなく学校まで到着したエリは、列から少しはみ出した友達の机をズズっと戻し、自分の席に座り、生徒用タブレットの電源を入れておいた。エリの違和感に気付く者や、気付かない者、複数の友達が、ホームルーム配信までの時間に、集まってくる。違和感に気付いた方の一人で、昨日もアニメの話題で盛り上がった友達が、「エリ聞いたよ、今日モール行くんだって?あいつと」間髪入れず友達は「まぁ、あいつもモテるし、デートの一回くらい、いいかもね」と耳元で言われ、エリはゾクっとした。聞きたいことができたエリの口を封じるように、「おはようございます」と、タブレット越しの教師が話し出す。しばらく間があって「みんな席に着いたみたいですね」とイジメ防止のルームレコーダーを見て、教師は「出席を記録します」と言い、全員のそれに、出席と書かれたボタンを表示させる。生徒は当たり前のように、一斉にそのボタンをタップする。「出席を確認しました。では、今日の時間割とその内容を送信します。続いて、予習用の明日のデータ送信と、復習データの回収をします」と言われ、生徒達は一斉にUSBをタブレットに差し込み、予習用データの記録と、宿題の送信をした。一字一句同じの宿題も、教師なら気付くかも知れないが、教師用タブレットのAIは、それに気付かず、一瞬で添削し生徒に投げ返される。「間違えた部分は見直しておくように」といつものセリフ。「五分後そちらに行き、授業を開始します」と教師は言い、タブレットはスリープされた。五分は、四分五十九秒、五十八秒と減っていく中、エリは友達に聞きたいことを早口で「なんで知ってるの?モールのこと」と短文な質問にさせていた。「あいつが言ってたの、ここだけの話って、自慢げに」「そうなの、で、ですな、みんな知ってるの?」とエリが聞き直すと「たぶん知らないと思うよ、誰にも言うなよって、マジ顔で言ってたから」「ふーん、そうなんだ」とエリは、マユを信じることにした。五分は一分を切り、エリも皆と同じように、自分の席に戻り、タブレットをリスリープさせ、一時間目の物理のデータを開いた。1ではなく零の時には、いつも生徒の前に先生はいる。技術的なトリックで乗せられた頭の上の毛を、ネタにした小話一つもせず、朝の固い頭には不合理な、要素原理から授業は始められた。固いはずのエリの頭は、朝から3Kし、ヨガの膨らんでは引っ込むお腹のように、柔軟だった。教師には気付かれなかったが、今日もエリはそわそわしていた。朝には確実にあったニキビが奇跡的に治っていないか、右手で触っては溜息をつき、自分が人間であることを確認し、手を離す。少女のそわそわは、触れば黴菌が入り確実に悪化する超現実を超え、二度三度と、溜息を繰り返す。窓から流れ込む、今日の風は心地良い。お日様は今日も暖かい光を放ち、汚れが綺麗に拭き取られた窓ガラスの外を眺めるエリの、利き手から不器用な手の方へ、影を移動させていく。予定通りのプログラムを終え、教師は復習用のデータを各タブレットへ送りつけ、黒いUSBに保存させた。教師は退場したが、ルームモニターに見守られ、教室は汚れを拭き取られていく。今日は半ドンだ。掃除の時間もいつもより早い時間に行われたにも関わらず、いつもと同じ時間を必要とされ行われた。決まった時間が終わり、席に着く生徒達。教師から退席確認のボタンが送信され、皆それをタップし、充電機に向かうAIRのように、それぞれ会話する者、しない者、スマホを手にする者、AVRを手にする者、そして帰る者に分かれていった。
A、B、CしかないクラスのCからAにマユは意外にも涎を垂らすことなく、口を乾かし心拍数を著しく上げて向かっていた。「エリお待たせ」と言ったマユを、「待ってたよ」とエリは驚かせた。「さ、行こう」と、肩まである黒髪の香りを感じることなく、エリの違和感を感じることなく、マユは繋いでもない手を引かれ、エリの後を追う。マユのモールまでのプランはすでに崩された。そうやって、マユとエリは朝、碧衣に言っておいた学校から近くのコンビニへ到着した。碧衣はAUTOMTERの中に二人を導き入れた。碧衣の笑顔で、「お疲れ様、はいどうぞ」とエリにはパックの牛乳と、マユには微糖の缶コーヒーを手渡した。碧衣の優しさを、いつものように流し込むエリの週二回は掃除されている耳に、「なぁ、この可愛い子誰?」というマユの発言が取り込まれ、流し込む速度が一段階上がる。「あの、はじめまして」と自己紹介を始める碧衣を制し、エリは「ゴミ捨てれんやろ、はよ飲んで」と不慣れな関西弁で隠そうとした動揺を、曝してしまった。甘いのかな、苦いのかな、三分悩んだ碧衣の優しさは、マユに受け入れられた。「よかった」と言ってゴミをゴミ箱に捨て、戻ってきた碧衣を指さすエリは「こちら碧姉、私のお姉さん」と言ったが、マユは「え?もう一回ゆっくりと」と言い、もう一度聞くふりをして、エリの脇を見ていた。エリの違和感は、マユに伝わったが、碧衣のことが伝っていない。「もう一回」と言うマユに腕を下し、「やだ」とエリは言った。今度は自分の方を指さされたマユは、エリの違和感を見ることが出来なかったが、「こちらCクラスのマユ、また、眉毛マニアのマユとも言います」という紹介をされた、違和感には気付いた。碧衣も「よろしくね、マユ君」と言うものだから、「こちらこそ、碧姉」と辛うじて得た情報で答えた。違和感という不自然は、エリの一言一言で自然に変えられていった。碧衣がハンドルを握るAUTOMOTERはモールに向かい、ナビゲーションシステムの電子音ではなく、「着いたよ~」と碧衣の声で到着が伝えられた。マユのデートプランは、エリのそもそも論で、とっくに片付けられ、ポケットに忍ばせられていたものは、そっと財布に片付けられていた。時同じく、エリは、カバンに片付けられていたボトルをそっと取り出し、シューっとしていた。
各自、トイレから戻って合流した、三人は、二十段以上ある動く階段に乗り、服のフロアにいた。書き変えられたシナリオは、まず服を買うことで始まった。マユは自分のそれではなく、エリのシナリオに参加することに、徐々ではあるが楽しさを感じていった。「何か欲しい服があるの?」と碧衣が聞くと、マユもエリの顔を見ていた。ニヤッとし、「ある」とエリは白い上の下着と袖の無い服に隠された胸を突き出した。「へ~どんなの?」とマユが聞くと、どこかの銅像の様に、人差し指を突き出し「あそこにある」と言って固まった。碧衣が、エリの指さす方を向いて、「あそこか~」と両手をエリより1カップ大きいそれの前で合わせるのを確認し、マユはエリの脇を見ていた。固まった二人に負けじと、マユも固まろうとするが、エリが動き出し、一人取り残されてしまった。エリに続き、碧衣も動き出す。エリの後ろで、はしゃぐ碧衣は、そのフロアで人から注目されるほど、輝きを取り戻そうとしていた。マユはそんな二人に目線を行き来させて「マユ君、こっち」と言う碧衣の笑顔に負けそうだった。エリが言うあそこに三人共、到着し店内に入る。それは楽しい時間だった。その柔らかく暖かい、カウントダウンされない時間の中で、碧衣とマユは、エリの言動で、誰の服を買おうとしているのか自然と分かっていた。次第に会話はその方向へシフトされていく。「ね、これはどう?」とエリが言うと、マユは「それもいいけど、こっちはどう?」とお互いの意見を一度受け止めてから、自己主張する会話が進んで行く。そこにはもう、この服でないといけないというイジメの基本ルールは崩壊し、碧衣は試着の嵐という嬉しい逆境の中にいた。この困難を決着させたのは、一着の青いワンピースだった。二人が同時に指さした服だった。エリが「なんで?」と聞くとマユは「ダジャレだけど碧姉の青」と答えた。そこで止めておけばいいものの、続けてマユは「碧姉、エリより2カップくらい上でしょ」と言い「このワンピースは、、、」と続けるはずの部分が、その瞬間にエリのスイッチが入った為に吹っ飛び、右手に青いワンピース、不器用な方にマユを握り、試着室のカーテンから困り顔を出し、萌っている碧衣の元へ両方を突き出すことになった。既に決定権の無くなっていた碧衣には、エリは引きつった笑顔で「碧ちゃん、これ決定」とゆっくり告げ、受け取ろうとする碧衣と、手を握られてドキドキするマユの二人に向けて「1カップだからね」とエリは力強く言った。エリ、そしてエリの右前方の碧衣、左のマユ、三人で構成された、三角形は連鎖するように、マユの「1カップか、俺としたことが」という言葉で、今日一番の笑いが起こった。
マユのドキドキはエリが手放すことで収まり、ちょっと避けてという言葉に寂しさに変わった。離れたマユを確認し、エリは碧衣に「姉さん、これがいい。これじゃなきゃ今日誘った意味が無いもん。姉さん、はい、碧き衣」と言って、しっかりと手渡した。碧いワンピースと顔をカーテンの中に隠した碧衣は父、母、妹、の愛を感じ、暖かく優しい涙を流した。連鎖した笑いが残るその顔は、AIでは理解するこができない、最高の笑い泣きを体現していた。少し時間が掛かったが、カーテンは二人の観客の為に開けられた。「どおかな?」と文句の付けどころの無い姿を見せられ、二人は唾を違う意味で飲み込む。鋭いエリは感付いて、「はーい、碧姉最高~」と言いながらカーテンを閉めた。閉められたカーテンの中で、今度もAIが理解できない苦笑いを碧衣は浮かべた。白い手提げに碧いワンピースを入れてもらい、それをぶらぶらと嬉しそうに振る碧衣は、益々人の目を引いた。「ジャンプ、エン、ジャンプ、ソウ、エビバディ、ジャンプ」と自作の歌を口ずさみ、トランポリン満々のエリに、「なんだよ、その歌」とマユが言う。「飛べ~そして飛べ~、さあみんな一緒に飛ぶんだ~」ってヒーロー的な歌がいいと言うマユに碧衣は「ジャン、アン、ジャン、シー、ソー、シーン、シー、ジャンプス、エンドレス」と一番まともなラップをバッチリな発音で歌い、二人を引かせた。
現実に戻ってきたエリは「トランポリン行こう」と言った。「昨日メールで言ってたトランポリン?嫌だよ」と言うマユの、向こうに、AVRを掛けた若者が見え、「何で、今日はAVR持って来てないの?」とエリが聞く。「昨日、言われたからな、そんなんじゃ私は見えないって」と、昨日エリが言った言葉をマユは言った。「じゃあトランポリンはいいや」とエリは言った。そんな空気を読み、碧衣が「映画観て帰りましょ」と全員一致のベストアンサーを出した。『キャントクライ』にエリと碧衣の二票が集まり、マユが一票を投じた『クラッシュヒーローズ』は落選した。マユが映画に賛成したのと、『キャントクライ』に、文句を言わなかったのには訳がある。そう暗闇での企みだ。バリ4以上にバチバチの頭はフル回転する。まず手を、さり気なくハンドレストに置き、距離感を詰める。シーンに合わせて手が触れ、感傷的アピールと紳士的アピールを同時に与える。触れた手の震えが止まるのを待って、今度は大胆に手を握る。ここからが未体験ゾーンだ。できれば肩に手を回す。違和感を与えてはダメだ、そう言い聞かせながらだ。次からは、シーンが重要だ。空気を読め。涙が溢れ出す、その瞬間を狙え。相手は溜まった涙で俺がよく見えないはず。それは羞恥心を下げるに違いない。涙が一つ流れたら、オッケーのサイン。口のとがらせ方は練習済み。いける、このプランにクラッシュヒーローも立ち入る隙がない!はずだ。真っ暗闇でコピーNOを訴え踊るキャラを、魂が抜かれたように見つめるのは、バリ4どころか圏外のマユだった。田舎でみんなが手を叩き応援してくれた主人公の歌。それを夢の肥やしに都会に出るが、受け入れられず。負けん気が強い主人公は、人の見ぬところでいつも泣いていた。心が折れ、母の元に帰る。がんばれと言ってもらえると思っていた主人公。母が掛けた言葉は、やりきったんなら胸を張って帰っておいでだった。この時に生まれた曲がキャントクライで、この曲でブレークしていく主人公のサクセスストーリーだ。人の人生、一言でこんなにも変わるものかと号泣する碧衣の「じゃあ、わたしここ」という一言がマユの可愛い人生プランを変えてしまった。碧衣の左で魂が戻らぬマユ。マユの計画通り、碧衣の右でママを想い涙を流すエリ。東京から離れた仙台の地で、三人はそれぞれ違う色と温度の涙を流した。
足元が明るくなって、恥じらいが出てくるのは共通のようで、魂を抜かれ冷たい涙を流した者、同情ではなく共感の蒼い涙を流した者、ママの愛おしさに冷たく暖かい涙を流した者、それぞれリセットし、主人公の癖のある歩き方になり、チケットの半券をポケットに大切にしまい込んだ。リセットしたものの、口数が少なくなった三人。おもむろに、エリが航(わたる)と呼んだ。一番驚いたのは、碧衣だった。航ってだれ?裏返った声で言ったので、二人は笑い、つられて、もう一人も笑った。碧衣は碧衣さんと呼んで欲しいと言ったが、航は拒否って碧姉と呼び、マユが嫌だった少年を、エリは航と呼び、碧衣は航君と呼んだ。これで、残っていた違和感はすべて解けていった。違和感が解けた喜びで手を振る航を、天使の笑顔で見送る二人。「もういいよ」という航の気持ちを、踏み躙る、車から降りて手を振る、天使の行為。それは航が角を曲がり、見えなくなるまで続いた。角を曲がった航は、「なんだろ、この懐かしい感じ」と口ずさみながら家に向かった。
一方、二人も車の中で、山の頂上を目指していた。エリは、大きい空間では気付かなったが、車内という限られた空間に身を置き、自分の変化に気付いた。「うわ、マジか、どうしよう」と、戻れない過去の事を悔う。「シューしたけど、いろいろ動いたからな」と振り返り「どうしよう」と、もう一回言った。AUTOMOTERの静かさは、ぎゅる~っとなったお腹の音を、碧衣に知らせる。今日、たくさん笑ったせいか、エリを考えて作ったせいか、自然と「エリ、今日は、南京の煮物だよ」と言う。「あ~」と、エリは黙って受け入れればよかったのに、続けて「初めて今、エリって言った」と口にしてしまう。碧衣はしっかり前を向いて、「エリが自然になっちゃった」と言い、エリは「腹減った~」と照れ隠しした。
「南京、北京、かぼちゃの日本」と訳の分からい自作の歌を、碧衣にラップに変えられないように、ぼそぼそ歌いながら、碧ちゃんがエリ、私が航、そう呼んだのは、航のおかげ?と心の中で考えていた。山の頂に到着した二人は三体のAIRに「ただいま」と告げた。碧衣は「ご飯にする?お風呂にする?それとも?」とエリに選択権を与えた。エリは「ふん、もちろん、お風呂」と言った。エリの空腹は、碧衣が作った煮物を綺麗になって食べたい、という思考に負けた。碧衣は『キャントクライ』に出てきた、性格の悪いプロデューサーのモノマネでAIRに向かって、「風呂を高速給湯しなさい、40度で」と告げた。モノマネに込められた感情は読み取られず、言語処理され、AIRは風呂を沸かせた。「碧姉、先どうぞ」とエリが言い、煮物を美味しい状態で食べさせたい碧衣は自然と「分かった、先入るね」と言って、不自然は自然と起こっていた。その間、エリはママの前で二人言を言っていた。今日起こった、不思議な出来事、航のこと、色々会話して、最後に「これじゃ、ママ眠れないね」と言い、「そっか、ブログに書こう」と一人言で決意した。この時の決意で、エリはブロガーとしてのスタートラインを跨ぐ事となる。ブロガーの前に、少女のエリは、キッチンで「南京、北京、これかぼちゃ」と涎を堪え、ラップを刻んでいた。「出たよ」と言う碧衣の声に、「よ~し」とエリは言い、脱衣所にダッシュした。ガチャと大き目の鍵は金属音を立てることなく、袖の無い服を脱ぐエリ。肩まである黒髪が、ふわっと持ち上がる時、すらっとした嗅覚は、ふわっと生きてる証を嗅ぎ、エリの六感を刺激する。シャワーの音で刺激された六感は、無意識に尿意を示し、しゅーっと放出する。肩までのそれ、ニキビが育った頬、山と谷を、それぞれ適した白い泡で洗浄し、どぼんっと湯に浸かる。今日起こった不思議を、ブログの原稿として、ぼんやり考えていた。のぼせた六感は、頭の中の出筆を妨害し、握った航の手の感触をリロードさせる。その感触でオーバーヒート寸前の六感は、自然とエリの手を、山の頂と谷の奥に導く。六感にリンクした体は、数日前に終わった引き潮から、この瞬間に満潮を向かえ、最高の生産体制を発揮する。少女のリミッターは低く、オーバーヒートしてしまった六感は、リロードされたそれを、すぐに消去させて、空腹に接続させていった。
科学の手が届かない人間の神秘を、無意識に体験したエリは、意識的に白いタオルで肩まである黒髪をごしごしとしながら、意識させられた「お腹すいた~」という言葉を自然に発していた。すべての条件が揃った南京の煮物を中心とした夕食は、それを中心として位置する二人のすべての欲求を満たしていった。部屋に戻ったエリは、ブログをAVRのアプリで開始した。その水性ペンで書かれたスタートラインは、AIの厳しい言語制限と、感情的な音声入力を悉く表現できない時間のロスにより、消し改められ、スマホのアプリにスタート地点を設定し直された。エリの処女タイトルは「私の人生、売ります」というネット社会で最もイジメがいのある、誰もが隠したがるプライベートを示唆するものだった。「私の名前はエリ」から始まったカミングアウトは「いつまでも、トランポリンで跳ねる私を優しい顔で黙って見守ってくれるパパの思い出」のところまで書き込み、全世界に送信された。家族がいないエリは、褒められる事に飢えていた。自分でも自分を褒めてあげられない自分にコンプレックスを感じ、プライベートを隠せば隠すほど、自分は誰にも認めてもらえない現実を味わって生きてきた。自分を褒めてあげる為には、自分を認めることが必要で、自分を認める為には、過去を振り返ることが必要と、二人言をすることで気付いてしまったエリは、躊躇なく、裸でピラニアが生息する川に飛び込んだ。ピンクの歯ブラシに白い歯磨き粉を付け右左と左右に動かす裸のエリ。天使の笑顔で「おやすみ」と碧衣と三体のAIRに告げる裸のエリ。ほんの数分で行われる、いつもの日常。その数分の間にネット社会でも、いつもの日常が同時進行されていた。エリのブログには、超現実主義社会が重視する現在という要素が足りなかった。足元しか見えないピラニアは、暖かい涙が溢れ出て入力する指が止まった、過去の話を、過去で終わらせたエリの感情を、食らうことを止めない。そのエサは、ネアが自分を正当化することの為に食され、ネオは同情を美化させることの為に食した。ネアは「なにそれ、キモ、それよりいま彼氏いるの?」とコメントを、ネオは「何か悲しそうだけど、大丈夫?」とコメントする。リロードはリロードを生みコメントはコメントを生み、エリの感情は既に必要とされず、ネアとネオとの争いが始まっていた。熊を抱いたエリは冷たい涙を流していた。涙は鼻水を生み、頭痛を生んだ。頭痛は眠りを妨げ、孤独を生んだ。孤独は救いを求め、エリは碧衣の部屋に行くか悩んでいた。その間も冷たい涙は止まらない。見る見るうちに小さなゴミ箱は白いティッシュでいっぱいになったが、傷付いた六感は涙と鼻水を止めようとはしない。六感は、感情を伝えることができるスマホを握らせる。その時だった、電子音が鳴り響き、涙で霞む液晶に表示されたのは航の名前だった。優しくタップして耳にあてるが、何も聞こえない。何も言えない。そんな沈黙を、男として破ったのは「だいじょうぶか」という航の一言だった。エリはその一言に、号泣した。鼻をすすり上げる音は感情として航に伝えられたが、航は涙を我慢する。何も言えず泣き続けるエリに、優しく涙を我慢する航。泣き続けるエリに、我慢しきれなくなった航は涙を一つ流し、「そういえば、はじめてだったよな、電話。これからちょくちょくしてもいいかな」という航の告白に、「いいよ」とエリは一言だけ言えた。
Z章~私~
1 2024年
明文六年、影野が福島で白い米を食べてみせた翌年、私は月音と共に、長くお世話になっている病院にいた。私は名前を呼ばれるまで、備えの大型テレビで、朝のワイドショウを見ていた。優しい表情の看護婦さんが残酷に病室へと案内してくれる。ここまでは慣れている一連の流れ。着席するなり先生から、久々に問診票を渡される。「問診票なんていつも無いのにね」と月音は問診票の文字と私の顔を交互に見てくる。1、タバコは吸いますか?2、お酒は飲みますか?3、ギャンブルをしますか?4、就業されている方に伺います。現在の仕事は勤続何年ですか?5、離婚経験はありますか?6、子供は複数いらっしゃいますか?7、考え事をよくするタイプですか?8、無口とよくいわれますか?9イジメを受けたことがありますか?10、御両親は健在ですか?10項目の問診票を次々と誘導されるようにYESに丸をする私と、パソコンの画面のスクリーンセイバーに設定されている流れる川を、交互に見る先生。白衣に身を包んでいるものの、足元は黒いサンダルを引っかける、信頼できる先生だ。記入を終えた私は、無精髭に少し白髪が混じる先生の顔を見て、これで私の何が分かるのかと思いながら、十の回答を手渡した。蓄えた白髪交じりの髭を、猫の毛繕いかのように優しく触りながら、先生は赤い油性のボールペンで、私を判定していった。結果発表の前に、いつのも一連の診察という雑談が始まる。「よく眠れてますか?」が決まって最初の雑談だ。「はい」と答えると、決まって次に「食欲はありますか?」が来る。また「はい」と答える私。同じ答えが出せない質問を同じようにしてくる。「どうなりたいですか」という抽象的な質問だ。私はいつもこの質問に苦しめられる。過去には「自由になりたい」とか「楽になりたい」「仕事を辞めたい」「妻の迷惑になりたくない」など色々答えてきたが、今回は「死にたい」と答えた。驚きというよりは、興味がある、そんな顔で先生は私を真剣に見てくる。何か引き出そうとするその顔に、自分の言葉足らずに気付いた。「死にたいというか、自殺とかそういう事でなくて」と言うと、先生は表情を緩めた。「私は思うんですよ、葬式って、故人が主役になる式だと。言い換えれば、人生で唯一、主役になることができる死。私も人生折り返して、自然と死を意識してるんです。結果を出す事も大事かもしれませんが、残りの人生をどう生きるかというプロセスがもっと大事だと思うんです。そう、死んだ時、式に足を運んでくれた人が、同情ではなく暖かい涙で、私を主役にしてくれる、そんな死に方をしたい。死にたいとはそういうことでした。すいません、言葉足らずで」と私は、珍しく多く語ったが、先生は「人の寿命は延びてますからね」と噛み合わない返答をした。目線を、珍しく黙って聞く隣に座る月音に向ける私の隙を突き、先生は結果発表を始める。「先ほど頂いた回答の結果ですけど、結論から言います」と現実ばかりを押し付けてくる。「非現実型鬱病でしょう。最近、鬱病も、分類されてきましてね、非現実型鬱病は、現在四十歳代の方が多く患う鬱病です」と宣告されたが、「はぁ」と半信半疑の一言しか浮かばなかった。先生は後回しにした主文を続ける。「主な原因は依存にあると言われています。四十歳代の方は戦後の高度経済成長に生きる父親の背中を見て育ちました。無限の労働力を生み出すことが出来たのは、依存だったとされています。妻や、酒やタバコが依存先の代表です。その子が今の四十歳代の人です。結果より内容を重視するよう脳内の伝達物質が分泌され、重視した内容で行動した結果が、自分のイメージと不一致した時に、激しく気分が落ち込む。つまり、気分が落ち込むというのは、現実に起こっていることを脳内で上手く処理できていないのです。これを称して非現実型鬱病です」という先生の診察結果を聴き、半信半疑は納得に脳内で変えられてしまった。先生は「カルテの病名を書き変える必要があります」と言い、「ちょっと、待って下さい」と身を乗り出して言う月音を、右手で抑えて「はい、構いません」と私は言った。先生は空気を読むのが得意だ。「あ、そうそう、猫を飼いたいって話どうなりました?」と十三分ほど医療報酬を稼ぐ。月音はそのことを知らず、いつものようによくしゃべった。先生は話の区切りのいいところで「お薬ですが」と言い出す。「新しい薬を試してみますか?」と選択するよう言ってきた。「右利きですよね、左脳を主に使って生活してるんです。新しい薬は、右脳の活動を活発化させる、そんな薬です。当然、利き腕を左にとまでは言いませんが、左手を意識して使う生活を伴います。リアルゾンという名前の薬で、非現実型鬱病に有効とされています。どうです?試してみますか?」と迫った。「考えさせて下さい」と私は正直に言った。先生は「分かりました、ではいつもの、トラゾドンとフルニトラゼパムを、一か月分出しておきます。予約も一か月後の午前で入れておきます」と言い、「次はオリンピックが終わる頃ですねと」付け加え、私と月音は「ありがとうございました」とお辞儀をして、診察室を出た。会計を待つ二人。大型テレビが映し出す占いの結果に素直に喜ぶ月音が私は好きだ。占い結果が悪いことで自分を責める自分が嫌いだ。優しい表情で、お金を請求してくるピンクの衣を纏った看護婦さんの「お大事に」という言葉は複雑だ。隣にある、薬局に入って、処方箋を渡し、白い椅子に腰かける。薬が準備されるまでの間、左脳が少し前の場面をフィードバックさせる。右脳が働くということは、良い結果で喜ぶ月音を嫌いになり、悪い結果の占いを見た自分の右手はラッキーアイテムを手放すことができず、残った左手では「お大事に」で自慰行為も出来なくなり、生産性を失う。そこまで左脳がサポートしてくれたが、一か月の猶予と、薬剤師さんが私を呼ぶ声は、答まで出させてはくれなかった。「はい、大丈夫です」といつも答えるけど、必ず「飲みにくい薬はないですか?」と聞いてくれる、私より若い薬剤師さん。今度は「ありがとう」と言ってみよう、そう思い支払いを済ませる。二人は白い軽自動車の軽いドアを閉める。パワーウィンドで風が通るようにして、私はタバコに火を付ける。月音は煙たい顔をせずに、「新しい病人にされたね、鬱病が、何とか型鬱病だって」そう笑顔で言った。黙ってタバコを吸う私に「なぁ、聞っきょん?」と得意のセリフを吐く月音。タバコを消し、「ええんちゃん」と一言だけ答えた。月音は私に「仕事運が悪いって、今日の占いで言ってたよ、でも頑張ってるから大丈夫だよ。」と言う。現実でもなく非現実でもないところを月音は知っている。そういうとこが好きと、頭で分かってても、言えない私。心の照れ隠しで、私はまたタバコに火を付ける。それを見て月音は「さっき吸ったばかりで、また?いいけど高いんだよ」とまた現実と非現実を語る。妻が買ってきてくれるタバコを吸う私は、複雑な思いでいつも煙を吐き出す。
三本目のタバコを吸い終える頃、自宅マンションが見えてきた。駐車場の4という数字は白い軽自動車で覆われる。部屋に戻った私は、黒い二人用のソファーに月音が座れるように、片方の隅に腰かけた。スマホの畑に水をやりながら、32インチのテレビの電源を入れる。そこにはパリで開会を喜ぶ多くの人が映し出されていた。ちょうど聖火点灯シーンだった。実況のアナウンサーは東京の事に触れず「この清き炎はロサンゼルスへと引き継がれることでしょう」と言った。隣へ来た月音は、「おいおい、その炎は東京から来たんだぞ」と珍しく正しいツッコミを入れる。「今日ってことは、今日だよね」といつもの感じで疑問符を黒いソファーの上に飛ばす。私は月音にツッコミを入れない。切が無いからだ。黙って聖火の陽炎を見る私に「なぁ、聞っきょん?」と言うので、これはツッコミ所しかないと思い、今日の日付を教えてやった。「じゃ、なくて」と躱すものだから、つい月音の罠にはまって「何が?」と言ってしまった。予想通りの自慢顔で「東京でやってるAIオリンピック」と言った。憎たらしいその顔に、私は「ロボットのロボットによるロボットのためのって言ってるあれだろ」と無表情で言った。「何それ?」と月音は言った。私の疑問符は、そのあなたの小さい疑問符より、遥かに大きいぞ、と思いながら無視した。「なぁ、聞っきょん?」と月音が聞くので、まだ言うかと心で思いながら、「AI産業で一時遅れを取っていた日本は、東京オリンピックを機に世界のトップへ立ち、その地東京で、今年初めて開催されるもう一つのオリンピック、それがAIオリンピックだよ。行われる種目に限りがあるものの、選手、審判、映像機器、実況すべてがAI搭載のロボットや機器で行われることから、アメリカ合衆国第十六代大統領リンカーンの言葉を文字って、ロボットのロボットによるロボットのためのオリンピックとも言われている。はいこれであなたの疑問に私は答えることができたでしょうか?」と逆に聞いてやった。月音は少し考え「リンカーンって誰だっけ?」と言うから、頭にきて「その疑問は、リンカーンを知らないのか、リンカーンがどんな人かを知らないのか、私には分かりませんので、スマートフォンで調べて下さい」と言い、真が帰って来るまで絶対にしゃべらないと心で誓った。スマホを操作しながら月音は「あれYESじゃないよ」とぼそっと言った。もう左脳が痛い私は、誓い通り黙っていた。月音は「設問8」と言う。少し興味が沸くが黙る私。「憶えてる?」月音が言う。あなたの発する言葉は、いつも主語やら動詞やら足らないものだらけだ、そう言いたいが、黙って聞く。「問診票の8番ね、あなたは無口ですか?あれYESに丸付けたの見てた。あれ嘘だよ。無口の人がこんなにしゃべらない」。右脳が働く。六感は誓いを守ることを許さない。自然と口から「ありがとう」と発していた。そんな人の神秘をあざ笑うかのように、月音のスマホには星の数ほどの検索結果が点滅していた。リンカーンを「ふ~ん」と一言で片付けた月音は、「そこの交差点まで」と言い、ソファーから骨盤の開いた腰を上げる。私に向けられたそのおしりを「そこの交差点まで」という言葉だけで、活性化した私の右脳は、二人の息子で、真と名札を付けている小学生が、事故の多い交差点を無事渡れるか、マンションの階段を転ばず駆け上がれるか、上と下の鍵穴の上に手が届きかねる背丈でドアを上手く開けられるか、そんな息子を思う母の気持ちに動かされた人より少し大きなおしりと瞬時に理解した。月音の母性が与えてくれた時間で、私はテレビでオリンピックの開会式を見ながら、スマホを手に取る。私と同じ機種で色違いのスマホが目に入った。一体、月音は事故を目にした場合、どうやって、助けを呼ぶのか。母としての月音は、私が男として考える範囲に収まらないことが多い。もし、あの交差点で真が事故に遭ったなら、月音はどんな行動をするのだろう。そこまで考えたところで、先生が言った「辛いことは考えないように」という言葉に従う。そうそうと自分がやろうとしていた事を思い出す。金色のスマホで、非現実型鬱病と検索を掛ける。学会の発表論文の抜粋などが並び、本当にあるんだと簡単に理解するに留まった関心は、学者のそれを遥かに上回る、ヒットした一件に注がれる。「宮野、宮野何て読むんだ」と一人言を洩らし、引き付けられるようにタップした。検索でヒットしたのは、宮野の『AIは涙を流すのか』で第四章に綴られた超現実主義社会から派生した文章の非現実という言葉だった。私の左脳は今日起こった出来事を、超現実主義というワードに当てはめ、一旦吸収したが、膨らむことなく吐き出した。むしろ非現実として処理しようとしている。
インスパイア、左脳と右脳が歩み寄り、火花が散る。気になってしょうがない衝動を、オリンピックですら抑えることができない。驚かせてやろう、そんな母と子の、階段を上る忍び足、最小限に抑えられた鍵を捻る音、気付かれまいと小声で「せーの」という合図、そんなすべての企みが、黒いソファーに座っていても感じ取れる。インスパイアは日常に潜む気付かないことを気付かせてくれた。私は「さあ、驚くことは無いから、いつでもどおぞ」頭の中で言った。月音と真は、大きな音や声という初歩的作戦で、最終関門の短い廊下とリビングを隔てるドアを勢いよく開け、黒いソファーに座る私に向かって大きな口を開いた。「アイムホーム」。その言葉に、インスパイアしている私の脳達は、学校で英語の成績の上がらない真と、そのサポートが出来ず、休みの日に中学英語からやり直すというテキストで勉強する月音の気持ちを、一瞬で気付かせ、涙腺を刺激する。「おかえり」が自然の流れだろうが、「よし俺が教える」私は聞かれてもいないのに、そう答えていた。その一言は、かつて英語を専攻していた過去の自分、なんで?が口癖の月音と真の大量の疑問、自分を振り返って自分を変えること、依存していないと生きていけない自分を認めてあげること、そんなことから逃げていた自分に、気付いてしまった以上、できるかどうか分からないが、変わるんだという意思表示の一言だった。
私の父の倫理をベースに造られた私の倫理は、崩れ去る。新しい倫理が浮かんだわけではないが、はっきりイメージできたことがある。思想や倫理は、考え、学び、気付き、変わるもの。そう、変わるべきものだと月音と真に教わった。オリンピックの閉幕を待たずしてリアルゾンを飲むかどうかの答えは決まった。日常には、薬に頼らなくてもリアルゾンと同じ成分を発揮する出来事で溢れている。その出来事に気付くことで、勝手に右脳は働く。両方の脳が働かなければ、現実だけを見るのを一旦止め、一歩下がって左脳を働かせばいい。そしてまた右脳を働かす準備をする。一歩下がることが、大きな前進を生む。その繰り返しで、私は鬱病を克服することはできないだろうか。正直分からない。過去の思想や倫理が邪魔をする。しかし、薬で変わるより、自分で考え変わる方がましだ。考えることは人類の特権なのだから。
そう結論に至った私を見て、月音と真は、お互いの私を驚かせられなかったことで表現された不満顔を見合い、「なんで?」「なんでだろうね?」といつもの言葉で反省会を始めた。私は反省会を見て発見した。何故二人は、特に真は、疑問符をいつも飛ばすのかという答えを。それは私がいつも無口だからだ。無口な私を父に持つ真は、超現実主義社会で育ち、その社会に影響され苦しみ抵抗するかのように、疑問をいつも抱えている。反省会では色々議論されていたようだが、「ママのおしりのせいだよ」という真の一言で決着したみたいだ。ダイエットしたら足音を抑えられたと真の一言で月音の心が折れたのだった。私の脳で起こったインスパイアは、月音のおしりを見て始まり、驚かない私を作った。真はベクトルこそ違うものの、「ママのおしりのせいだ」という確実な正解を口にした。
リビングを見渡せるキッチンから月音は「今日、何食べたい?」と聞く。「何でもいい」と私は答え、「何でもいい、それが一番困る」と言い返してくる月音の苦悩と、何でもいいよという私の優しさが交差する信号機のところに置いてある、ペットボトルの上半分が切り取られ、花瓶としてリサイクルされた月音の捨てられない病の結晶を前に、水性マジックを持つ真がいた。月音と私の思考が錯誤することに気付かない真は、数種類の花が活けられた時から変えられていない水の水位の変化に気付いていた。透明のペットボトルに引かれた線を濡れ雑巾で拭き取り、再び水性マジックで水位に合わせて線を引く。真は最近この作業を、最初に枯れた花を見て以来、数日の間怠っていない。変えられていない水は濁ってはいくものの、水位はある一定の位置から変わらない。活けている花は、枯れていくが、同種であっても枯れるスピードが違う。それが真には不思議でしょうがなかった。意地を張る二人の月音の方に「ママ、もう一個ある?ペットボトル」と真が言う。「え?あるよ花瓶」と花瓶を主張しながら真に渡した。真は、くるっとママの方に行き、そこで濁った水を捨てた。数日前からの行動とは逆の行動を起こしたことに、月音も私も、休戦状態になる。真は線の引かれた元のペットボトルに、その線まで水を入れることを月音に要求した。今度は私が呼ばれ、「パパ、喉が渇いたからサイダー取って」そう言われたので、ペットボトルのそれを「少し重いぞ」と言い渡した。サイダーを飲んだ後の真の行動に、月音と私は、思わず「あっ」と言ってしまった。真は並べたペットボトルの空の方に、サイダーを溢さないようにゆっくりと、炭素ガスの気化に苦労するも、水と同じ水位まで注ぎ込んだ。私はサイダーを冷蔵庫に戻し、真を見る。真は花を活けていた。綺麗な花は水の方へ、枯れかかっている花はサイダーの方へと。気化も落ちつているペットボトルに水性マジックで、水位の線を引き、「できた~」と笑顔で言った。真の笑顔と「できた~」に反応して、月音は「よくできました~」と言い、真の頭をよしよしとしてあげた。しかし、月音の顔は引きつっていた。そう我家は、裕福ではない、捨てられない病の月音の本音は「もったいない」だっただろう。月音はその表情を保ったまま「で、何これ?」と真に、もったいない病の薬を求める。今度は深い議論が始まることを私は期待して見守っていたが、議論はすぐに終わった。「何これ?」と聞かれた真は、「お花さん達はペットボトルの中でケンカしてたから」そう言った。「なるほど」と月音は言ったが、すぐに私に向かって「だって」と理解できなっかったのか、議論に参加するよう誘ってくる。私も理解できず「水が濁っていたからかな」とか「お互い気を使ってたんじゃ」とか「お水変えなかったママのせいだよ」とか言いながら、最後に「お腹いっぱいなんだよ」と言ってみた。納得しないのか、真は黙っている。大人二人が子供一人をイジメているような雰囲気になり、黙っている真は今にも泣きそうになっている。月音は真に今まで数多くの、母親の優しい嘘を言ってきた。またそれを使って月音は、「パパ何言ってんの、ねぇ真。パパ残念~、ケンカしてたんだよ、ねぇ真」と笑顔で言った。名誉ある悪者は、「で、これどうするの」と聞いた。機嫌が直ったのか、真は「サイダー飲んで元気になったら、元に戻すの」と嬉しそうに言った。なんとなく真の言いたいことが分かったような気がした私は「ふーん、そうか、がんばれよ」と言い。そのまま月音に向かって「卵焼きでいいや」と休戦中だったそれを、再開せずに終わらせた。「いいやってなによ、ねぇ真」と真を味方に付け、揚げ足を取って再戦を仕掛けてくる月音に「ぼく、目玉焼きがいい」と真はきっぱり言ってみせた。
私は、ソファーの横の棚から財布と鍵とスマホとタバコを取り、「今日は、目玉焼きかぁ、ちょっと出かけてくるわ」と言って、オリンピックを消し、部屋を後にした。「ちょっと、どこ行くの?」二度ほど聞こえただろうか、「ちょっとそこまで」と言い、私は白い軽自動車に乗り、タバコを吸いながら、三分で着く本屋にいた。探すのが苦手な私は、五分ほど探したが見つけられず、店員さんにスマホの画面を見せて、「この本ありますか?」と聞き、技術の塊で調べてもらった。一分も掛からず、女性の店員さんは「Aなみですが、うちでは売り切れです。他店でよかったら、この先のDモール店に、三冊あります」と教えてくれた。Dモールは昔、エリとよく行った、大きなトランポリンがあるところ。そう理解できるが、Aが分からない。「あの、Aなみって」と聞くと、店員さんは「あ、すいません。『AIは涙を流すのか』の略です」と、また教えてくれた。「分かりました、ありがとうございます、そちらへ行ってみます」と言い、私は白い軽自動車の中で、タバコを吸いながら、「Dモールか」と悩んでいた。もう一本タバコに火を付ける。今日、考えたことを思い出す。今日始まったばかりの倫理を、否定するのか?と自問する。インスパイアした頭は、二本目のタバコを消すと同時に、車を走らせた。その瞬間、私は涙が溢れそうになる。
いつもの道は過去の道になり、最近は月音の指定席になった助手席には、確かにエリが座っている。自然といつも停めていた立駐に車は進み、エンジンは切られる。ドアが閉まる音はふたつ。手を出す私に、「早く早く」と飛び出しそうになりながら、手を繋ぐエリ。二十段以上ある動く階段の最後を飛び下りるエリ。「トランポリン、トランポリン」と嬉しそうに歌うエリ。料金を前払いする私に向かって、「もういい?もういい?」と今にも囲いの中に入ろうとするエリ。「いいよ」と言う私を、振り向きもせず、肩まである黒髪を靡かすエリ。私はいつもの椅子に座り、エリを見つめる。そろそろ喉が渇く頃かと思い、私は囲いに近付き、牛乳を差し出す。エリは笑顔で、学校で飲んだばかりだよ、と言う。私は急いで自販機でお茶を買い戻る。それをごくごくと音が聞こえるくらいの勢いで飲み、またトランポリンへ返っていく。今度は私を見た。天使のような笑顔で手を振るエリ。エリより小さい子が近付くと、今日もよけてあげるエリ。そんなエリを見て私は安心した。椅子に戻り、呼吸を整える。「また、来るね」鼻をすすりながら、搾り出た言葉は、そんな一言だった。
空腹はスマホを見させた。夕食の時間を過ぎていることに焦り、書店に入りすぐに店員さんに「Aなみ、どこにありますか?」と聞く私。会計を済ませて車に急ぐ足はエスカレーターを駆け上がらせる。夕食の時間を過ぎたことが不安を生む。4と書いてある場所に、白い軽自動車を停め、自分の部屋に目をやる。光が無い。悪夢が蘇る。階段を駆け上がる。手が震えて、上と下の二カ所の鍵穴に上手く鍵が入らない。胸が締め付けられ、嫌な予感がする。短い廊下をどたどたと音を立て、ドアを開けリビングに飛び込む。ぱーん、ぱーんと二つのクラッカーの音に、私は床におしりを着き、驚いた。「ハッピバースディパパー、ハッピバースディパパー」と歌う二人に心から言えた「ただいま」と。
驚いた私を見て、二人はハイタッチで「作戦成功」と天使の笑顔で笑って、私を不安から解放してくれた。「なんで?」と今度は私が真の口癖を言う。「あんなに音立てたら、おしりが大きい私にだってバレバレよ」と月音はドヤ顔で言う。今度はショートケーキを指さし「なんで?」と聞くと月音は「病人へのお見舞い、その人もうすぐ誕生日だし、真の前歯が抜けたし、私のダイエット開始前夜祭だし」と色々口実を並べる。今思えば、私が辛い時、いつもケーキを買ってくれてた月音の過去が鮮明に映し出されていく。指で白いクリームをぺろりとする真と、何かとサプライズが好きな月音を、私は同時に抱き寄せ、絶対的存在がそこに存在することを確かめ「いてくれて、ありがとう」と言い鼻を啜った。
現実と非現実を上手く行き来する月音は、私に鼻をかむようティッシュを渡す代わりに、手に持っていたビニール袋を取り上げた。「もしやエッチなやつ?」と口には出さなかったが、明らかにその顔で、私のプライベートに入ってくる。そして衣を剥ぎ取る姿に真は「何ー?」と便乗してくる。しかし、この二人にはその権利があると納得し、「なんで?」というお決まりを躱す為、手を洗いに行く。躱すはずが、ほんの三メートル歩く間に、四回も「なんで?」が聞こえてくる。発信元は月音が二回、真が二回。手を洗い終え、空いた席に腰かける。一日目のカレーの香りが妙に食欲をそそる。四回は八回になる。それに一つずつ、空腹を我慢して、答えることにした。妻代表、月音君、「なんで、あなたは本を買ったんですか?」私もマイクの前に立ち「記憶にございません」と言う。妻代表、月音君、「あなたは、今月度予算について、どうお考えですか?また、その本はいくらしたんですか?具体的にお答え下さい」「記憶にございません」。子供代表、真君、「なんでー?」「お答えしかねます」。子供代表、真君、「なんで遅かったの?お腹すいた」「心からお詫び申し上げ致します、申し訳ありませんでした」と質疑応答時間は終わり、月音が「手を合わせて下さい」と言う。私も今日は素直に応じ、みんなで「いただきます」と言った。
タバコで馬鹿になった私の味覚でも、真に合わせた甘目で一日目のカレーも、美味しかった。ケーキまで辿り着き、私は「ダイエットするの?」と月音に聞く。「うん、明日からね」と白いクリームのケーキにフォークを入れ、最後の一欠片を口に入れる。「別にいいのに」と私が言うと、月音は立ち上がり、むにっと掴まれたおしりの肉を私に見せ「霜ふりの良質な肉です」と言った。「別にいいのに」また同じセリフを私が言うと、月音は冷蔵庫に向かう。まさかとは思ったが、やはりケーキのおかわりを持って戻ってきた。「なんで?」と私は聞かざるを得なかった。「明日食べようと思ってたけど、この黒いチョコレートケーキ、我慢できん」と言い、もうすでに周りのビニールをくるりと剥ぎ取り、付着したチョコをぺろりと舐めている。いくつも聞きたいことが浮かぶが、一つだけ聞くことにした。「あのそれ、明日、食べようと思ってたの?」と一点集中した。「うん、なんで?」と聞き返してきた。いつもそうだ、月音という十歳年下の妻は、私の記憶を巻き戻させる。「えーと確か、私が聞きたかったのは、ダイエットを明日から開始すると、一方的に言い始めたにもかかわらず、その初日にあたる明日、その今食べている黒いチョコレートが魅力的なケーキを食べるつもりでいたとは、どういうことですか?そんな質問でした」とまた、たくさんしゃべらされた。月音はケーキを大事そうに見つめて「だって、ダイエットとケーキは別腹でしょ」とそっと言った。辛い時にケーキを買ってきてくれてた意味を教えてくれた、私はそう理解するほかなかった。
こんな会話をしてしまい、心配になり、真を見る。真は自分のスマホにブログ日記を打ち込んでいた。真は一日に一度、ブログを日記として打ち込むことが習慣化されていた。真のブログはシンプルだ。前の日に起こった出来事、朝起きた時の気分、その日に起こった出来事、を毎日繰り返し箇条書きする。真は「できた~」と言うので、今日のブログを見せてもらった。私は、たくさん箇条書きされたそれらの一部に気を取られる。「きのう友だちがけんかした。今日ママがちこくと言いながらふとんを取った。さむかった。家でサイダーをのんだ。お花にもサイダーをあげた。」そういうことか、私の中で、今日の真の言葉や行動が接続されていく。カシャカシャと米を炊く為の窯に、食器を沈めていく月音。「入ったら?」月音が言う。主語もなにも無い一言は、お風呂に入っていないのは私だけだと知らせていた。私は、脇や股や足から酷く匂うそれを、洗い流して、脱衣所にある洗面台の鏡で、疲れた顔を見る。歯と歯の隙間に挟まった、カレーの旨みを、ディスカウントストアで買った糸ようじで、昔より簡単に通るなと思いながら、いつもの隙間を掃除していく。ブルーの歯ブラシの白い葉に、赤い歯周病予防の歯磨き粉が、少し乗せられ、いつも腫れがちな歯の茎を中心に磨いていく。鏡という私の空間に、月音が入り込んでくる。「寝たよ」と言い。ちょうど弱い歯を磨き終わった私の手を引く。その手を振り払い、Aなみを取る。自分はお風呂で済ませたそれを月音に尋ねる。「おしっこは?」「さっきした」と月音は答え、二人はベットに入った。壁の方を向いて、Aなみを開く私の足に、月音の足が重なる。手がちょうどヘソの辺りに来て、上か下かに行こうとしている。大き目のおしりより人の目を引いている、大きな胸を背中に押し当ててくる。そしてキスをせがんできた。月音は不思議だ。毎日、毎日、この行動を欠かさない。私は必然的にいつものセリフを言う。「重い」「暑い」「太い」。そして月音は「またそうやって」と言いながら、スマホでゲームを始める。私は自問自答で『AIは涙を流すのか』の序に並べられた、読めるはずの漢字を読破できない。考えていたのは、そう真の事だ。
私の頭の中に探偵がいる。スマホのばらまきで月音がゲットしてきて以来、ずっとあの調子でブログを書いてるからな。まめに内容は見ていたものの、今日のサイダー事件で分かったような気がする。バブルで太った女局長の成績で判断する思考、人を一人殺したブラック企業の店長が言った役割分担という言葉、それを引継ぐかのように発生したネアとネオ。そう今世の中で起こっているのは、分別そのものではないか。それを感じる真は意識して、分別された感情を接続させようとしているのではないか。それに必要なのが、ブログと考えれば、すべてが接続される。マントを脱いだ探偵は、月音を跨ぎ、換気扇の下でタバコに火を付ける。ゴーっと音を立て渦を巻くように煙を吸い込んでいく。それを見ながら、考え過ぎかと、事件を解決させ火を消した。一仕事終わって、戻ってきた私に、月音はまた足を重ねてくる。今度はちゃんと、月音の言うおやすみのちゅうを済ませた。「タバコくさ」と言われ、壁の方を向いて私は「おやすみ」と言って目を閉じた。今日は不思議な一日だった。いつもは、フルニトラゼパムを飲んでも、寝付きが悪い私が、月音のイビキ聞かずに済むとは、本当に不思議な一日だった。
新たな一日をスマホのアラームで起きた私は、粘ついた匂いを放つ口内を洗浄した。その口内とは対象に脳内はすっきりしていた。記憶するのが苦手な私であっても、昨日の事を今日に接続できているからだ。二日目の黄色い旨みが掛けられるはずだった白い米は、月音の手で球状に丸められ旨みを取り戻し、私の空っぽの胃袋に浸透していく。すっきりした方の牛乳をごくごく音を立て、飲み切り、脳は働く準備が整った。今日も眠たそうな顔の真だが、昨日と何か違うのだろうか。少し今日のブログが気になってきた。「もう四十分やで」月音が何度も言う。月音が四十分と言うことは、まだ三十分であることを意味すると私は知っている。月音も私と真を見送った後に、働きに出るので焦っているのだろう。私は追い出されるように、月音と真に「いってきます」と告げ、黒いソファーの横にある棚から、財布、鍵、スマホ、タバコを取り出て行く。「いってらっしゃい」と二つの声が心の栄養素とも知らず、私は駐車場を、単なる4と書かれたスペースにして、タバコを吸いながら、勤務先に向かった。
先生が言うように、病気の私は、人と接しない仕事を選び、コンビニのオーナーという職の後はこんな仕事をしていた。簡単に言えば、レーンを管理すること。元々、リエノコーポレーションが設立した、リエノスカイという会社に私は勤めていて、空を多く飛ぶドローンの離着陸を管理する仕事についていた。しかし、去年、食品工場を吸収合併したリエノスカイは、今のリエノスカイフーズに社名を変えた。私はスライドで、リエノスカイフーズの契約エリア社員になった。取引先はコンビニだ。コンビニ各社は生き残りをかけ「今」というテーマを軸に追求、争いを続けていた。AIで予測された天気予報の情報をWIFIドローンはキャッチして、各コンビニ店舗に地域情報として配信する。それを受けたコンビニのコンピューターは天気、曜日、客数などから、今一番最適な品目、数量、納品時間を割り出し数値化し、従業員が承認ボタンを押すことで発注完了となる。発注データはドローンに送られ、リエノスカイフーズが受け取る。リエノスカイフーズはデータの通りに弁当、おにぎり、パスタ、ドリア、うどん、そばなど、デイリー商品を作っていく。AI搭載自動調理機で作られたものは、AIRが盛り付け、商品となり、その商品をAIRが各コンビニ別に仕分けしていく。配送のドライバーさんは、それを受け取り、私にサインを求めてくる。私が承認した商品は、時間通りに各店に運ばれ、店員さんが、商品に付けられたバーコードをスキャンし、数量を照合する。数量を確認した店員さんは、今一番最適な商品として陳列し、それを客は求め来店する。購入した客は、各家庭に持ち帰り、「旬のものは違うね」と言いながらそれを完食する。この影野が作り上げた物流システムの中で、私はレーンを管理している人型の機械と、空を飛ぶ飛行物体を管理して、その結果にサインをする仕事。そう、影野に飲み込まれ、その黒い胃の中で私は、AIオリンピックを見ながら、ハンコを付くという仕事をして、はじめて生かされる、そんな存在だった。
この仕事は実に退屈だ。リアルタイムの天候情報が送られ、かつ雨はもちろん、風、落雷、湿度、温度すべての面で耐久度が増し、常に最新のものが飛ぶ、落ちる事のないドローン。熱感知機能や振動波発受信機能が新たに備えられた最新型AIRによる、安心安全な空間。同じ時間に働く人は、A棟、B棟、C棟と分けられ話すこともない。唯一接点のあるドライバーさんは、過労で口数も少なく挨拶程度の会話しかできない。無口で病気の私でも、さすがに決まった結果のオリンピックを何度も見るのは飽きてくる。限界に達した時、いつもドローンを見る。空には変化がある。そして今日も空を見る。いつもは雲くらいしか、変化しないのに、今日は不思議だ。流れ形を変える雲は、動物に見え、青い面積を変えていく。動物が流れていく方に目をやると木が揺れている。その木はぼんやり見ると山になり、その山のふもとには自分のマンションが見える。マンションには月音が見え、真が見える。それに接続されるように、昨日の月音のおしりや、真のサイダーを入れる真剣な表情、あの山に登った過去の記憶まで蘇る。一度、インスパイアした脳は、こんなにも世界を変えるのか。山に登った過去の記憶は前妻とのものだった。その脇には、小さなエリがいる。私に残る最後のエリよりずいぶん小さい。膝に絆創膏が貼ってある。転んだ後、私と手を繋いでいる。その手はまだ小さく柔らかい、そして暖かい。そう接続されたところで涙が出てきた。病気の私は、機械に囲まれ暖かい涙を流した。
ブーっとブザーが鳴る。私は名札に埋め込まれたICチップと涙が拭き取られた目の網膜スキャンを終え、影野の口のから脱出した。社外に出た私は、空気を大きく吸い吐き出す。空気中の二酸化炭素を吸い込み、酸素を吐き出す最新のドローンを見て、美味しい空気をありがとうと思う。白い軽自動車に乗り、会社の敷地を出た。やっとタバコに火を付けることが出来る。曇る車内から小型IRを見る。ギャンブルとタバコの接続で、今日は妙に心が引かれる。いつもよりきつくタバコの火を消し、誘いを断る。それでも信号待ちの時間、葛藤する。ここを左に曲がるか、直進するかの葛藤。左にはIRがある、どうする、歩行者は横断を終え、その合図は点滅し、私をさらに誘っているようだ。点滅がスロット台のそれに見えてくる。消したばかりのタバコに火を付ける。一瞬、すべての合図が赤になり、煙を吸い込む。目前のそれは、青に変化した。私は車の合図を出すタイミングを失った。仕方なく体は反応した。直進する車の中で、ふぅーっと煙を吐き出した。私は、4と書かれたスペースに車を停め、部屋の方を見る。明かりが灯っている。二日目のカレーの匂いを感じさらに安心する。
ギャンブルを断ち切り、辿り着いたそこには、衣食住すべてがあり、「おかえり、ご飯?、お風呂?、それとも」といつも言う月音の言葉に、性の欲が奮い立つ。今の私なら、新たな命を、、、そこまで高ぶったところで「それともで」と言ってみた。月音は「何それ」と言い、私はお風呂に向かわせた。シャワーを頭から顔面に浴びながら、考え接続させていく。月音が言った「何それ」を素直に受け入れる自分。なえていく性の欲。足を重ねてくる月音の苦悩に、壁の方を向き新たな命を拒む自分。自分が歩んできた時代と病気の自分。病気の原因と、離婚。最後に二人の子に会えなかった過去。ファストフード店の二階で、養育費を払わない代わりに、子と会わないことを約束した後悔。その後悔を引きずって、新たな命を拒む私。私と同じ気持ちを味わう人々。横からそれを見て笑う人々。未婚率の上昇と人口の減少。「パパお腹すいた」と真の声がして、接続先を失う私の脳。真の空腹と顔の温もりで、どれだけそこにいたか容易に想像できた。風呂から出た私は、再度、私がハンコを押して出荷される弁当でないことを、嗅覚で感じる。残された席に着き、月音の合図を待つ。視覚で捕えた二日目の黄色は、もはや黄金色に変化し、私の食の欲を刺激する。
「手を合わせて下さい」待っていた月音の合図。三人は「いただきます」とスタートを切り、一気にゴールを目指す。メタボが気になる私は、そのオリンピック競技のスタートで出遅れた。添えられたサラダから食すのだ。その間にも二人は歩を止めない。サラダを終え、私はようやくカレーにありつける。さあ、遅れを取り返すかのように、百十円で買われた銀色のスプーンを手に取り、二人の後を追う私。しかし、二人は満月のようにあったそれを、すでに半月にしている。私は焦ってふぅふぅを忘れている。しかしそのまま口にイーン。さあ、わたしの口の中ではあらゆる葛藤が始まっている。おおっと私は目の前に見える水に気が付き、葛藤もろとも飲み込んだ。この二日目のカレーを味わわず飲み込む行為は、後で審議の対象となるでしょう。さあ、カメラは既に折り返した二人を撮らえる。僅かな差だが、月音が有利か。それは意地でしょうか?大人の意地でしょうか。一歩が大きい私は、真の後を追う。そして今まさに、真を追い抜いた。私を動かすものは何なのでしょうか。場の空気か、空腹か、美味しさか、百十円では不可能とされていたコスパか~。いや違います、味覚をはじめとするすべての感覚だ~。六感、そう六感だ~。さぁ、どうなるこの戦い。ゴールが見えてきた月音、その背中が見えてきた私。ここでポテトサラダというCMは入れられない。中継を続けます。ヒートアップした二人の攻防は、火花を散らす。それはまさに大人の意地と意地のぶつかり合いだ。夫婦は女と男に変わり意地を張り続け、今ゴール、ゴール、ゴールです。終わりなき戦いと思われたこの試合もあっけない結末で幕を閉じました。なんと、なんと、月音のリタイアだ~。月音は真の、真の口の周りに着いた二日目のカレーを、白いタオルで拭いています。そうそれはリングに投げ入れられた白いタオルだ~。こんな結末でいいのでしょうか?視聴者は、いや全世界は、この結末に納得できるのでしょうか~。それではここで、一旦ポテトサラダのCMです。
そのポテトサラダは真の為に小さく、そして三人の為にハートに象られた人参がそっと入れられた、いつも月音が作る愛情のかたまりだった。私はその愛情に触れ、昨日から緩い涙腺を、カレーのスパイスではなく、ポテトサラダの愛情で刺激され、暖かい涙を流していた。愛情を噛みしめる私を見て、月音は「みっともない」と言って、口の周りのカレーを拭き取ってくれた。月音にカレーを拭いてもらう私を、真は見て、真と私は月音の口の周りを見た。その視線を感じ取った月音は「え?なに?」と言い、真と私は大笑いした。一頻り笑った後、私は口元を指し「付いてるよ、拭いてやろうか?」と言うと、月音はやっと笑われた理由を理解し「みっともない」と言い、自分で拭き取った。真はポテトサラダを食べ不思議そうに私を見る。「パパなんで泣いてるの?」といつもの「なんで?」をぶつけてくる。「何でかな、真ならもうすぐ分かると思うよ」と私は正直に言った。ポテトサラダを食べ、不思議そうにしている、もう一人の星人がいる。嫌な予感は的中するというが、やはり的を外さない。「何で?いつも通りにできてると思うんだけど」と月音はぼそっと言う。障害物競争で疲れた私は、「お前はずっと分からない方がいい」と言った。愛情で包んだ答えを出した私に「ばか」と月音は一言多い、一言を言った。
総額千五百円で片付けられる食器を、月音は片付け、私はAなみの序を読んでいた。一旦、脳まで上げられた血液は、消化のため胃に落ち、眠気を誘う。再び血液を上げる為に、「真、英語の宿題を見てやろうか?」と言ったが、真は「いいよ」と言う。働かない脳は「いいよってどっち?」と言っていた。月音が洗い物をしながら、「ママとしたもんね」とドヤ顔で言う。急上昇した血液は、大きな接続を生む。この家庭という社会を、分別しているのは真でもなく、月音でもなく、紛れもなく私だと。分別を美しいと思う私。なんで?が口癖になってしまった真。その間で苦しむ月音。大きな鎖で結びつく。この二日間で何か変われたかと思っていたが、自分のイメージしていたものへは、変わっていなかった。そう思いふける私の表情を見て、月音は「何か、変わったね」と私に微笑んでくれた。「そう、何も変わってないよ」と言おうと思ったが、「ありがとう」に変換され会話になった。
「できた~」昨日と同じ真のセリフに、ブログが気になり、「見せて」と私は言った。真からスマホを受け取り、箇条書きされたそれらから、昨日気になった項目を目で探す。「きのうはお花にサイダーをあげた。今日はママやパパより早くおきた。ともだちとあそんだ。かえってお花を見た。お花さんはないていた。ママにもとにもどしてもらった。パパはサラダをおいしそうにたべた。」か。「よく書けてるよ」と私は言い、真の頭をごしごしした。何だか私のことを書かれているようで戸惑った。月音が真を寝かせるまでの間、私は序を読み終え、第一章を読んでいた。真が眠り、私は歯磨きをして、薬を飲んだ。ベッドに入り、本の続きを読む。この部屋では、何で?星人は、ちゅっちゅ星人に変身する。今日は壁の方でなく、月音の方を向き、おやすみの儀式を済ませる。いつもはここから、足を重ねてくる。でも、今日はそれが無い。むしろ私と逆の方を向いている。数時間ぶりに性の欲が沸いてくる。今度は私が足を重ねる。「暑い、重い、太い」と言い返された。十歳年上の私に、大人の駆け引きをしてるつもりか、そう思ったその時、「生理だから」と、やはりいつもの月音だった。
第一章を読み終えた私は、薬が効いた程よい眠気と、それを打ち消す月音のイビキの交差点にいた。その信号機は赤と青と紫の三色で、誰も通ることのないその道にたたずむ私は、月音と真と手を繋ぎ、点滅する紫色を眺めていた
2 2025年問題
明文七年三月下旬、大きな金が動く。大企業は、五年に渡って行ってきた大規模な早期退職優遇処置という名のリストラと、団塊ジュニアの退職、また決算月、この三つが重なり、支出金の目途が立っていた。その仮決算ではじき出された数値を元にして、本決算には既に、年度をまたいで納品される、機械への支出金が計上されていた。この莫大な金は、三月中にリエノコーポレーションが受け取ることになる。主に物流事業、介護事業からAIRの大量発注が入っており、四月一日納品、六月一日本格稼働が予定されていた。三月最後の日、花束や鉢植えなど主力商品が売り切れる花屋が続出。また、スーパーでは、購入に躊躇するほど高騰した値が付けられる天然マグロやサケの刺身が売り切れていた。弱小した繁華街も、この日だけは賑わいを取り戻し、会社を去る者と残る者、新新年を祝う者、様々な酒が夜通し酌み交わされた。年度が変わっても、除夜の鐘は鳴らされない。年賀状など届くわけもない。鳴るのは「開けおめ」と言う内容の着信音。笑顔で手を振るだけの動画に届けられる無償のいいね。着信音といいねは連鎖し、新正月の鐘とハガキの代わりなっていた。
四月中旬、サクラ出版の宮野は、同社の有料サイトに、政治評論家の松高八絵を招き、メディアと政治について討論していた。その番組は、宮野の「ネアとネオについてどう思いますか?」という松高への質問から始まった。松高は「この五年間で、私もよく耳にするようになりました。それが率直な感想です」と最初の一言を述べた。宮野は「ネアカ、ネクラってもう知らないでしょ、今の年代は」と松高に聞く。「はい、差別的な意味で用いられることがある、それくらいですかね」と松高は答えた。宮野は「だよね、簡単に言えば、バブルで得たお金を派手に使い、上に立とうとしてたのがネアカで、下に見られてたのがネクラ」と説明した。「それって、ネアとネオじゃないですか」と松高は言う。顎に手を当て「そっ、その当時から分別というイジメやケンカが始まって、それを今もネアやネオって名前は変わったものの、まだやってるんだよね」と宮野は話し出し、エンジンを掛けた「百歩譲って、金を使い派手に振る舞うのは勝手だけど、メディアがそれを正義とし、逆を悪として祭り上げ、ビジネスに活かした、それが今も成り立ってる時点でダメでしょ」とギアを上げていく。「確か、リエノって補助金もらってるんですよね」と松高は自身の得意分野に話題を持っていく。「そっ、AVRがここまで普及するきっかけでもあった」と宮野が言うと、松高は「そういえば、宮野さんAVR持ってるんですか?」と聞いた。「当然知ってるよね、僕、開発に携わってたの。持ってるし、使いまくってるよ」と答え、熱弁を続ける。「あんなもん、はっきり言って、神だよ神。でもね、僕がお気に入りの、普段はさらし巻いてるような女主人公が、体が誇張された変身シーンでビーザスに変身して、影の組織に立ち向かうというストーリーの『ビーザス1ST』が見れないんだよ」それを聞いた松高は「なんすかそれ?」と思わず言ってしまう。「あのね、ビーザスについて語ったら、番組終わっちゃうから、後でスマホで見て、まだ見れるから。僕が言いたいのは、ビーザスを見れない理由に着目できるかどうかということ。AVRのAIは検索履歴回数と危険ワードですべてを分別してるんだ。要するに、多く観られるものを善とし、その逆を悪としているんだ」と一呼吸した。松高は「それって、いいことですか?」と疑問を重ねる。「それについては、私の書いた本『AIは涙を流すのか』を読んで下さい。」と本を手に取り「この第四章からラストにかけて、書いてあるので」と回答を避けた。松高は番組前半の最後に「AIって涙を流すんですか?」と質問をした。「ネタバレになっちゃうから、YES、NOという答えは本を読んで下さい。それより僕はね、一旦、過去を勉強した方がいいと思う。特にバブル時代。バブルって言われるくらい、異常だったんだ、あの頃は。急速に発展した通信機器やインターネットで当時の人が見たのは、過去から学んだ未来的な現実。今日起こった事が次の日には過去になる、そんなスピードで発展していく時代の中で、どこに現在軸を置いていいのか分からなかったんだ。現在軸のずれは思考や倫理のずれを生み、争いが始まった。AVRのAIは過去から見た未来という現在軸と、未来から見た過去という現在軸をすべて引き受け、超現実主義社会に合わせて提供してるんだ。その鍵となる検索履歴方式を思いついたのが影野なんだ。最近、AVRに変化が生まれているの知ってる?検索履歴回数が逆転してきてるんだ。その要因は、団塊ジュニアなんだ。時間のできた2025年問題退職者はAVRを買い、好みの作品を見ている。はい?はい、時間がきましたので前半はここまでです。この話の続きに興味を持った方や、違和感を感じられなかった方は、ぜひこのAなみを買って読んで下さい。番組後半は松高さんに、たくさん話してもらいたいと思います。それではここでお知らせを挟みます。「さて後半は、噂されている影野氏の政界進出についてからです、で、実際どうなの?」と宮野の質問から後半が始まった。「その話題についてはすぐに終わりますよ。理由は噂でしか聞いたことが無いからです」と松高は答えた。「では、2025年問題については?」と宮野は聞く。「終わったようにメディアでは言われてますが、私はこれからが本当の問題だと思っています。六月には、今月導入されたリエノのAIロボット、AIRが、人の働く現場で大量に稼働を始めます。六月まで、もしくは六月に大量のリストラが発生するでしょう。解雇予告は一か月前までに、通知する必要があるので、実質今月末に通知を受ける方も出てくるでしょう」と問題定義した。「松高がこの前、記事にした六月危機のことだね。その記事に介護の格差についても書いてたよね」と宮野が言う。「はい、AIR導入済みの施設とそれ以外の施設の差です。それ以外にも、財産の多い少ないで、入居料金、サービス内容、認可施設、不認可施設などを考慮し、選ばなくてはいけない時代になります。政府は、孤独死や介護待機の問題を受け、2017年の幼児教育無償化に重ね合わされ、近く消費税15パーセントへの増税を問う選挙を実施するのではないかとの見方も出ています。影野氏は、その選挙に出馬する可能性があると噂されています」宮野は腕を組み「なるほど、そういうことか、つまり政府はリエノに資金を流した段階で、影野のペースにはまってたということか。まぁ、今や衣食住を握ってるからね、彼は」と噂に触れ、最後に「これ言っていいのかな、僕ね、AVR3の開発に誘われてるんだよ、実は」と公表した。「どうするんですか?」松高が聞く。「その前に、この先、日本はどうなると思う?ざっくりでいいから」と松高に宮野は聞いた。「少子高齢化が今より緩和することは難しいかと。政府は増税を繰り返すが、いずれ、財源を失うはず。なんか暗い話ですいません」と松高は正直に答えた。その松高に向かい「今日は、ありがとう。いつも正しい事を言ってくれる君に感謝」と一言感謝を言い、宮野は、武士の一太刀を振るう「選択肢は二つ。生か死の二つに一つ。超現実を取るか過去を取るかだ!」その二十分の放送は、最後に放った宮野の一太刀で幕を閉じた。
私は月音と真を車に乗せ、二十分程で着くはずだった、私の実家にいた。九年前、重いタバコを吸い続け喉頭癌になり声が枯れた父。私が私になってすぐに、くも膜下出血で倒れ、その後も乳癌など病気を重ね、丸くなった母。私が年を重ねることで似てきた顔の兄。実に久しぶりだ。真が母の日に、月音と、私の母にと似顔絵を描き、それを届けに来ていた。私の母は、かつて私が部活を辞めることで流した涙とは、明らかに違う涙を流していた。その歪んだ顔は、病気のせいか、喜びのせいか分からないほどだった。その空間で、父は母を見て「なに泣っきょんや」と枯れた声で言いながら、自分の目にも涙を浮かべ、兄は換気扇の下で加熱式タバコを吹かしていた。タバコを吸い終えた兄が「遅かったの」と言ってきた。「前の車が遅かったから」と月音がなぜか答える。元運転手でニュースが好きな父は「四月から、あの、ロボットが運転しよるけんな」と皆に教えた。その枯れて聞き取りにくい声に母は「え?なんて」と聞き返す。父は「もうええわ」といつものセリフを言い、横を向く。「じいじ、どんなロボット?」と真が食い付く。感情移入に疲れる。いつもこうなる。「もう帰ろう」そんな言葉が我慢できなくなる私。しかし、今日は違う。出るはずの言葉が出ない。真のブログのおかげか?なんだか、接続される言葉と言葉。それは会話だ。私の倫理が変わったように、皆変わっていた。父は家を空ける苦しみを、重いタバコで紛らわせ、定年まで働き抜いた。その後は、癌を患ったものの、取り戻すかのようによくしゃべる。母は一家の責任を負い、冷たい涙を流し、病気をしてまで、私を応援してくれ、今は暖かい涙を流している。兄は、まだ独身だが、数年前に家を建て替え、両親を支えている。私はどうだろう。まだ「ただいま」しか言っていない。考え込む無口でいつもの私。兄は、買っておいてくれた、おもちゃで真と遊んでいる。母は、月音に大量の天ぷらが入ったお土産を渡し、月音は遠慮無しに受け取る。父が寄ってきて「ちょっと太ったか」と一言だけ言った。この空間はなんだ?家族なのか?間違いなく家族だ。お互い助け合う家族。お互いに足りない部分を補い合う家族。美しい光景だ。どこか太陽のような暖かく優しい家族。世代を超えた倫理がぶつかり合い、それは今も変化しながら、優しさを纏い接続されていく。宮野が言う3Kというやつか。手に取るように分かる。ここに来るのを拒んでいた私。拒んでいた理由。すべての理由が接続されていく。今を見てみろ。目の前はどうだ。おもちゃで気分良く、好きでもない兄と、はしゃぐ真。未婚で子のいない兄の憧れ、それが具現化されたおもちゃ。玩具が欲しい真と、子が欲しい兄の接続。もう一人、子が欲しい月音。そのアドバイスを求めるかのように母に吸い寄せられていく本能。傷を負って生産性を失った母。その未練は大量の天ぷらをエサにして月音へ手渡され間接的に私に押し付けられる。無口で威厳を保っていたが、仕事を終え饒舌になり、「ただいま」しか言っていない私に寄ってきて、太ってもいないのに、太ったか?などと嘘を言う。無口でいる私に無口であった父は、まだ私に教えたいことがあるのか。そう、今目の前で起こっているすべてのことが3Kを使えば接続できる。まさに快感だ。この快感の元はなんだ?遠い記憶か?かつて持っていた、いや確実に今も持っている攻撃的思考。「帰りたい」そう言葉が出ないのが今は分かる。快感を楽しんでる。もっと会話してくれ。そして接続させてくれ。なんだ、この感覚は、もう一度僕からやり直せというのか?頭の中にざく切りの記憶が僕から始まる。僕は小学三年生で、木の床を雑巾がけする女子が気になってしょうがない。小学五年でラブレターをもらい初恋をする。目線を合わせるだけで幸せだった。母と風呂に入り、まだ切り落とされてない乳房をじっと見た時、確かに身を背けた。中学二年でネクラな少女を好きになるが、ネアカな女子に告白され付き合う。高校では無修正ビデオが流行りずっと見ていた。大学生で童貞を卒業し、やっと大切な何かを感じた。性欲に負け、多数の女と寝た。その中の一人に前妻が混じっていて、結婚し二人の女の子を作った。離婚し、月音と結婚し今か。私は白いアイスクリームを食べ、熱を冷ます。その味を舌に残し、タバコを吸う。私のざっくりとした記憶は女子もいれば、少女もいる。そしてブラウン管越しに股を開く女と目の前で股を開く女。出て来た子も女。どれも結局女だ。攻撃的思考は和らいだ。再び目の前に広がる空間に目をやる。小さなエリがいる。過去の家だ。楽しそうに、小さなブランコで私と向き合っている。それは海のようにゆっくりと揺れている。エリと私の距離を変えることなく、ゆっくりと揺れている。はしゃぐエリ。みんな笑い、会話をしている。無口な私。やはりトランポリンで跳ねるエリ。そして、最後会えなかった涙の別れ。攻撃的思考は和らぎ、そして悲しみへ。そこへ、女でない真の姿が目に入る。理解しようにも、理解できない。接続しようにも接続できない。私はやはり、ここに来るべきではなかったのか。過去が詰まったこの空間に。ABCDEFGと歌い声が聞こえる。エリなのか?その声はエリなのか。「帰りたい」「帰ろう」「帰らせてくれ」お願いだ、帰らせてくれ。帰れるのか?何か聞こえる。赤く光った音だ。青い柔らかいものに乗り、さらに白いものに乗る。これでやっと帰れるのか。
AとZ
1会合
2028年、父は喉頭癌が再発し死去。翌2029年、母はAIRに看取られ、父を追うように死去。私はこの事実を、のちに知ることとなる。この2029年、リエノはAVR3の開発を本格始動させる。AVR3を完成させる為に必要だったのは、家。影野が喉から手を出し欲しがっていたもの、それが衣食住の住だった。その家を完成させるため、AVR3を完成させるために、有識者が雇われ、チームを編成していた。データ解析並びに開発部門を仙台に置き、データ採取並びに実験部門を広島に置いた。人口密度が著しく低下した東京、そこにある、リエノコーポレーション東京支社で会合は行われる。第一回目の会合は、発足ミーティングだった。異常に広い会議室に集められたメンバーを前に、代表の影野がマイクを握っていた。自己紹介と自分の生い立ちを話終えた影野は、AVR3に込めた思いを述べる。「今、日本に必要なのは、過去でも無く、未来でもない、現在だ。現在起こっていること、つまり現実だ。我々は、現実を作るのだ。ここに集まってもらったメンバーは現実を作る為に呼ばれたと思ってくれ」と言い切り、主要メンバーの紹介に入った。その中に、宮野もいた。まずはその宮野が壇上に呼ばれ影野に紹介される。「みなさんご存じの通り、評論家の宮野氏だ。彼には主に倫理の面で協力してもらう」宮野はマイクを渡され自己紹介し、自分の席に戻る。そこから見るメンバーは多種多様だった。印象に残るメンバーもいた。その一人、統計学者の番だ。「彼にはAVR2発売時からAVR3発売後十年間の、人口推移データの試算と、事実調査の照らし合わせを担当してもらう」ということは、このチームはAVR3発売後も継続されるのか、と宮野は考えた。そう考えている宮野に壇上から手を振るのはポエム氏だった。影野に「現実をつくるには必要不可欠だ」と紹介されている。ポエム氏が席に戻ると、次々と技術者が紹介され、壇上には一人の技術者が上り、影野の紹介の後、こう述べた「影野代表からは、つながることのないものを、つなげてくれ、そう言われています。アルファベットで例えるなら、日本人はABCの歌をAからZに向けて歌います。その依存により、AからZは離れた存在なのです。しかしその依存を逆手に取れば、接続することも可能だと思っています」そう述べ、宮野の脳はインスピレーションする。なるほど、そうか、現在軸をAに置くとBやCについては自然と頭に浮かび、距離も近い為、接続させやすい。Zに時間軸を置くとXやYを頭に浮かべ接続する。しかしAとZはその距離が遠い為、接続が困難になる。AはZより先に歌われるから現在とすると、最後に歌われるZは過去になる。これでは接続どころか、争いは解決しない。過去と現在の接続、AとZの接続。生と死の二者択一と思っていたが、その間の、生きるということがAVR3で実現できるのか?その鍵が依存の利用という訳か。宮野は疑問に思いながら、壇上を見る。「こちらは脳のスペシャリスト、城山氏だ。城山氏は脳の伝達物質を分析、それを数値化した第一人者だ」と影野の紹介を受け、城山氏は「脳には、身体を正常に保とうとする力があります。現在を優先させる傾向と、過去に強い依存をしてしまう、そんな傾向があります。その伝達物質を数値化した私の技術を活かしたいと思っています」と簡単に述べた。宮野はAVR3をイメージしていく。いわゆる脳波まで採用するのか、もう既にメディアの域を遥かに超えてるな、そう心で呟き、次のメンバーを見た。そこには白衣を着た女医が立っていた。その女医は影野の紹介を無視し、マイクを奪い「私は不妊治療が専門の医者です。ここに呼ばれた意味がまだ分かりません。しかし、人口が減少する中で、毎日不妊に苦しむ患者さんを診て、そんな方々に可能性を与えることができるのならと思い参加しました。このチームにその可能性が無い、そう判断したなら、即刻辞めさせて頂きます」そう強い口調で語った。最後にという影野の言葉に、宮野は正直ほっとして前を向く。影野が口を開く「私は先日、いわゆるAV、アダルトビデオ業界をすべて買収した。各社よりAV業界で成功した監督達に集まってもらい議論させ、満場一致で選ばれた下田氏にメンバーとして参加してもらう」その言葉に会場がどよめいた。マイクを通して、下田氏は「あの~私は撮るのは得意ですが、話すのは苦手でして。あの、この中に私の作品を観たことがある方はいますか?いたら手を上げてください。あぁ、結構いますね。少し安心しました」と言い席に戻って行った。少しざわつく会場。それを咳払いで、再び注目された影野は「今、まさに始まったこのプロジェクトだが、何を作るのかはっきりさせておきたい。我々がまず作るのは、AVR4だ!」この日一番のどよめきが会場を包む。そのどよめきが収まるのを待って影野は続けた「私はAVR3が日本を救う、そう信じている。AVR4は人間の生産性に特化した試作品だ。その特化した部分を受継ぎ、販売を目的とし大衆向けに進化させたものがAVR3だ」
そう言い放ち、丸められた設計図を、ばさっと広げ全員に見せつけた。皆が見えるほど大きいその一枚の白い和紙には、影野が藍色の墨汁で描いたAVR4とAVR3が描写されていた。ざわつく関係者達。それもそのはず、AVR4と3は、まったく別物だったからだ。AVR4は椅子状の物体に対して、AVR3は従来のAVR2とほぼ同じだった。宮野はその奇妙な物体に興味が注がれるが、「今後のスケジュールは追って各自に連絡する。それでは、本日は設計、作成部以外解散」という影野の言葉で、その場を離れなくてはならなかった。宮野は走った。この機を逃すまいと、電子名刺端末機を急いで立ち上げた。駆け付けた先は印象に残ったメンバーの一人、女医の春川だった。「あの、初めまして、私」と宮野が言うと、春川は「知ってますよ、宮野さんでしょ、ちなみにAなみ読みましたよ」と一番目立っていた数分前とは大違いの人だった。宮野は「あのー」と端末機を差し出し、春川もまた差し出し、名刺を交換した。宮野はまた「あのー」と言い、今にも帰りそうな春川を呼び止める。「あのー、表のファストフード店に行きませんか?」そう誘った。「少しならいいですよ」そう春川は言った。「じゃあ、少しここで待ってて下さい」と言い残し、下田の方へ駆け寄る。「いやーお世話になってます。いろんな意味で。まさか下田さんと仕事ができるとは思ってもいませんでした」と、ここで宮野の表情が変わる。「で、どんな仕事されるんです?」と宮野は聞いた。「はあ、はじめまして。私は私の作品を選んで見せるだけです。具体的には、被験者に私の選んだ過去の作品を観てもらう、それだけです」と下田は答えた。そうか、撮らないんだ、と心で言い、宮野は倫理を働かせた。下田とも名刺交換を済ませ、宮野は春川と一緒に、表の店にいた。「いや、なかなか美味いもんですね、機械が入れるコーヒーも」と宮野は言い、表情を変える。「実は」、「ここのハンバーガー美味しいんです、知ってました?」と春川の笑みを誘い、本題に入る。「なぜ、あなたは呼ばれたのですか?体外受精の技術なら、何十年も前から進化を続け、もはや完熟期のはず。なのになぜ?」と春川を誘った理由を口にした。「理由は二つあります。一つは、女性の月経回数の減少と、それに伴う予測不能な排卵日による不妊が増加していることです。その原因は、ストレス、心身への強いショック、過労、不労、電磁波、未婚率、高齢化社会、と様々言われています。いずれにせよ、影野氏が言うように、人の生産性を上げることができるならと思い参加しました」春川の答えに、宮野は「はい、それ準備してきた答えで、聞きたいのは、もう一つの方です」と身を乗り出す。「実は、私とがんばっている患者さんに、エリと言う名の女性がいまして、影野エリ、そう影野氏の義理の娘さんです」宮野は「まさか」と言い「はい、そのまさかです」と春川は言った。「ありがとうございました、またおこしくださいませ」と店からAIRに見送られ、表で春川と会釈を交わし東京を後にする宮野は、落ちることのないドローンを見つめ「生きるのも、死ぬのも難しい時代になったものだな」と呟いた。
2 製造ナンバー二分の一
翌2030年夏、私はその夏空に、白く大きな食欲をそそる形の入道雲を見ていた。コンコンとノックをする音が聞こえる。家から持ってきた時計を見る。ドローンから正確な時と受け取るその三本の針は、私が「どうぞ」と言う前に月音が入ってくる、その時を指していた。月音が上から覗き込んでくる。「普通は、どうぞって聞いてから、入ってくるもんだ、いやそうあるべきだ」と、いつも、いや昔から私の中に土足で踏み込んでくる月音に言ってやった。「はいはい、いつも、どうぞが言えない、あなたに言われたくありません」と月音は呆れた顔で言う。「あ、そうそう、先生何て言ってた?今日も会って話してきたんだろ?」「うん、落ち着いてるって、そう言ってたよ」と今度はにっこりした。次の日、その夏空に太陽は僅かに顔を出すに留まり、所により黒、また白と複雑な色をした雲を私は見ていた。コンコンとノックをする音が遠くに聞こえる。家から持ってきた時計を見る。ドローンから正確な時と受け取るその三本の針は、私が「どうぞ」と言う前に月音が入ってくる、その時を指していた。月音が上から覗き込んでくる。「普通は、どうぞって聞いてから、入ってくるもんだ、いやそうあるべきだ」と、いつも、いや昔から私の中に土足で踏み込んでくる月音に事実を述べてやった。「はいはい、いつも、どうぞが言えない、あなたに言われたくありません」と月音は無表情で言う。「あ、そうそう、先生何て言ってた?今日も会って話してきたんだろ?」「うん、今日は真ん中だって、そう言ってたよ」とそっけない顔をした。次の日、その夏空に太陽は無く、戦争映画のラストに出てくるような雨を降らせ、私は黒い雲を見ていた。コンコンとノックをする音が僅かに聞こえる。家から持ってきた時計を見る。ドローンから正確な時と受け取るその三本の針は、私が「どうぞ」と言う前に月音が入ってくる、その時を指していた。月音が上から覗き込んでくる。「普通は、どうぞって聞いてから、入ってくるもんだ、いやそうあるべきだ」と、いつも、いや昔から私の中に土足で踏み込んでくる月音に怒鳴っていた。「はいはい、いつも、どうぞが言えない、あなたに言われたくありません」と月音は悲しい顔で言う。「あ、そうそう、先生何て言ってた?今日も会って話してきたんだろ?」「うん、今日は右脳波が高いって、そう言ってたよ」とまた悲しい顔をした。「帰ってくれ、たのむ帰ってくれ」その搾り出た声は「帰れ、今すぐ帰れ、話したくない」そんな感情を押し殺した言葉だった。「うん、分かった、また明日ね」と優しい顔を作り月音は出て行った。ごーっと、唸りを上げる雨の声。その声は目から聞こえているようだ。廊下からは、耳に声が入ってくる。「城山クリニックからのお知らせです」と。月音は下を向き、下唇を上の歯で噛み、二十以上あるボタンの三を連打していた。廊下の奥に、お腹の大きい妻の手を握り、大事そうに手を引き、こっちを目指す旦那が見えたが、閉と書いてあるボタンを強く押した。十九階の箱を三階まで降ろし、開と書いてあるボタンを押す。月音は、先生の部屋のドアをコンコンとノックする。中から「どうぞ」そう聞こえて、月音は部屋に入り、先生と向き合った。月音は開口一番に「先生、ちょっと、あの、やりすぎだと思います」と下唇を上の歯で噛みしめ、そう言った。先生は「そうですね」と言った。月音は「だったら」と色んな意味を込め一言で言った。先生は城山氏になり「しかしですね奥さん、あの時、ご主人は右脳波が二百五十を超えていたんです。今日は百七十です。昨日、リアルゾンを服用した結果で、想定内なんです。むしろ三錠飲んで、あの数値は低い方です。良い傾向です。あと、今日からは数日間はリアルゾンを服用しませんから」と言った。良い結果、服用しない、その先生の語る節々に、月音は自分を納得させるしかなかった。
クリニックを後にした月音は、AUTOBUSに乗っていた。多くの老人と一緒に乗り込んだそれも、家が近付くにつれ、次第に少なくなっていった。階段をゆっくり上り、上と下にある鍵穴の上に鍵を差し込む瞬間、肩に激痛が走る。短い廊下とリビングを隔てるドアを開け、真がいないことを確認する。短い廊下に戻り、左手にある部屋のドアをノックする。「いい?」と月音は聞く。中から「なんで?」と真の声がする。「入るわよ」月音は言い、一呼吸おいて部屋に入った。AVRで音楽を聴く真を目の前にして「なんでってどういう意味?」と月音は言った。AVRを外し、真は「そういう意味じゃなくて、YES、NOどっちでも、結局は入ってくるでしょ」と言い、また音楽を聴き始めた。「お腹すいた?何か食べたいものある?」月音が聞くと、「コンビニで弁当買って食べておいた」そう答える。AVRを外さず答える真に月音は「最近、ブログどうしたの?」と心配したが、「書きたくなったら、また書くよ」そう答えた。「そう」と言い部屋を後にした月音は、二日目になって冷凍された米を解凍した。えらく丸みを帯びた卵を、コンコンと慣れた手付きで割り、その米にかけ、ぐるぐると醤油をかける。もうすぐ百十五円になるスプーンでかき混ぜ、ゆっくりと胃に流し込んでいった。スプーンを握る手が止まる。ゆっくりと、ガチャという金属音が聞こえたからだ。月音は目の前に活けたユリの香りを感じる。真は私の運転免許書のICチップをAVRに読み込ませ、18禁を解除していた。捨てられない病の月音は、完食することなく、風呂に入り、老けた顔を鏡に映して、熱湯をその顔に掛け続けた。すっきりした二人は別々の部屋で別々の夢を見ていた。
次の日、私は少し曇った空を見ていた。コンコンとノックする音が聞こえ、時計を見る。「入るよ」と月音の声がする。一呼吸おいて月音が入ってきた。今日も私の顔を覗き込んでくる。いつものセリフを失った私に、月音が「真、大丈夫かな?」そう言ってきた。「なんで?」と私が聞く。「イジメられてないかな」月音は心配そうに言った。月音は月音の、私は私のせいだと思い、黙り込んだ。沈黙の中、廊下から「城山クリニックからのお知らせです」と聞こえてきた。月音は時計を見て、慌てるように「また明日ね」と告げ出て行った。私は、ドアと、目の前の窓を閉められた。三階には、城山氏、下田氏、データ分析チームが揃っていた。月音は同席を認められたが、その場にはいなかった。分析チームのリーダーが司会者のミーティングが始まった。リーダーは「それでは、これより、月次生産性データの分析結果を、城山氏、下田氏の試験内容と擦り合わせていきます。よろしくお願いします。まずは、この月初に見られる生産性の落ち込みはどういうことでしょうか?」とリーダーが開口した。「それはリアルゾンを服用し彼の右脳が働いたからです」と城山氏が説明した。リーダーは、城山氏の脳波データを見て、「下田氏の意見は?」と下田に話をふった。「あなた方が言う、バブル世代と、その子供達のバブルジュニアを定義とするなら、そのグラフが落ち込んだ期間は、バブル世代が好んで観た作品を見続けた結果が表れている。そう感じました」と下田が答えた。リーダーはグラフをスワイプで反転させ、量、質、回数をメイン表示させた。透けて見える生産性データと照らし合わせ、一致を確認した。続けてスワイプし脳波データと合わせる。「なるほど、それぞれの意見とそれぞれのデータが一致した。ではこの下旬に見られる生産性の上昇は?」リーダーが意見を求めた。「それは私なりに考えて、バブルジュニアが好んで観た、作品を見てもらったんです」と下田が言った。それを横目に城山は「右脳波が上昇した、月初を受け、リアルゾンの服用を停止し、下旬には左脳波が上昇した、それが要因だと考えられます」と回答した。それぞれのデータの一致を見て、「分かりました、すぐに本社に報告をしておきます。さて、今月は、生産性の上昇に焦点を絞り、引き続きお願いいたします。そして来月は、上昇データの要因をすべて反転させ、徹底的に下降データの採取に取り組んで欲しい。このスケジュールは私と影野代表の意見と思っていただきたい」そう締めくくり、それぞれは解散した。一時間以上続いたミーティングは終了し、城山先生の部屋のドアが開く。壁にもたれかかり、ずっと待っていた月音は、スタッフと肩をぶつけながらも、先生の方を目指す。先生の目を見て月音は「先生、何か分かりましたか?あとどのくらいあの状態なんでしょうか?大丈夫なんでしょうね」と迫ったが、城山は目線を逸らせ、「あと、二か月後、もしかすれば、といったとこでしょうか」と言葉を濁した。「だったら、せめて、せめてもう少し、あの人と話をさせてください」月音は大粒の涙を流し訴えた。「それはダメです。もう少し待ちましょう。あの僅かな時間でさえも、旦那さんの左脳波が、といっても分からないですね。奥さんと話したり、顔を見るだけで、データに異変が起こるんです。大丈夫です、あの時、そうここに運ばれてきた時のような異常データは見られません」と月音を説得した。涙を拭い、月音は「じゃあ、あの柔らかい紫のベッドから、二か月後に出られるんですね?」と白黒を迫っが、「それはさっきも言った通り」と城山は言った。
その頃、私は空腹を感じ、月音と食事していた。新婚旅行で行った先のホテルのバイキングだ。プレートにはお皿が3つ乗っている。1つは小盛りの白米。もう1つにはお味噌汁。最後の1つは大き目の皿だ。サラダを大目に取って、その横にローストビーフを数枚取り、肉団子、スクランブルエッグ、フライドポテト、酢豚など欲張って取った。先に席に座る私に、お箸とお茶を月音が持って来てくれた。後から月音が椅子に座る。周りを気にして食事の挨拶をする。私は月音のプレートを見て、取り過ぎと心で笑い、サラダから口に入れる。次にお味噌汁を飲んだ。月音と二人で、味が違うと言いながら、楽しくなる。逃げもしないのに、二人は一気に食べきり、私は気になっていたカレーを持って席に戻る。月音に一口食べさせ、カレーはどこでも美味しいと、空腹を満腹にしていった。しかし、何だろう、この左手のチクッとする痛みは。でもそんなことはどうでもいいか。このカレー二日目か、そんな美味で完食した。でも、またチクッと痛みが走った。
病院を出て、月音はAUTOBUSに乗り、家を目指していた。AIRに操作されるそれは、スーパーセキュリティーモードで法定速度を守って走り、時間通りに月音を家から最寄りのステーションへといつも運んでくれる。AIは時間を与えてくれた。しかし月音はそのまま家に帰る。いるはずの真がいない。スマホで電話したが、出ない。何時頃帰ってくる?そうメールを送っておいた。あと、十三分くらいとすぐに返信があった。メールできるんだったら、電話に出なさいと思いながら、真の帰宅を待った。「ただいま」と真が帰って来た。時計を見る月音。「なんで?十三分ぴったりなの?」と真に聞いてみる。真は「遅れるはずないでしょ」と言った。首を傾げるが、深く気にも留めず、月音は「今日、カレーでいい?」と真に聞いた。「うん、カレーがいい」と笑った。月音がカレーを作っている間、真はリビングに座りAVRで音楽を聴いていた。「ねえ、今度、一緒にパパのとこに行こうか?」そう月音が言ったが、真は「行かない」と聞いてるそれの音量を下げて一言だけ言った。「なんで?ずっと行ってないでしょ?」と真に言った。「分かんないの?パパ寂しがってると思うよ」と続けて言った。真は月音に顔を向けた。「分かってないのはママだよ。僕が行ってどうしたらいいの。何にも出来ない。今日もパパを見てそう思った。ママは自分が行けば何とかなると思ってるんでしょ。パパはママに会いたいのに、帰れって言うんでしょ。それにお金まで貰ってるんだから、何も言えない」と言って、月音との目線を切った。搾ったボリュームをMAXにまで上げ、真は斜めを向いた。
次の日、月音はいつものように、ドアを前にして悩んでいた。月音は時計を見る。迫る時間。病院のアナウンスは待ってくれない。悩んでノックし続け、また一か月が過ぎようとしていた。私はその日も空を見ていた。時計に目をやる。そろそろと、期待していた。ノックする音が聞こえる。いつもと感じが違う。月音が「入るね」と言い、覗き込んできたのは真だった。「おぉ、また来たのか?」と真に言った。真は月音を見て「ほらね、こんなんじゃ驚かないよ」と言った。月音は「なんで?」と苦笑いを浮かべた。月音は懐かしさを感じていた。私は月音に「また、なんで?か、真は見に来てくれてたからな、でも話すのは何時振りだ?」と少し笑えた気がした。私は真に「大丈夫か?」一言聞いた。「うん、大丈夫だよ」真は一言で答えた。「私もなんとか大丈夫」そう月音が割り込んできた。私は無視した。そうあの言葉を引き出そうとして。月音は「なんで~?」と言わされ、三人は笑った。そろそろか、私は時計を見て、寂しさを紛らわすように、「今日、先生がくるから、帰るか、そろそろ」と言った。「そうなの?」と言う月音に向かって真が「ハンバーガー食べて帰ろ」と言って月音の手を引き、「またね」と言って、二人は出て行った。城山クリニックからのお知らせです、と定刻を向かえ、窓が閉められる、その時、先生が本当に走り込んできた。先生は窓を開け、私に、「脳波に異常が出たので、来たのですが、何かありましたか?」そう言った。私は「特に何も」と答えた。
次の日、私はハンバーガーの話を月音から聞いて、昼食はハンバーガーに決めた。月音は廊下でミーティングが終わるのを待っていた。例によって、月次ミーティングが開催されていた。メンバーは前回同様、城山氏、下田氏、データ分析チーム、に加えて春川氏が参加していた。分析チームのリーダーが今回も司会を担当する。「それでは、今回は、前回データの生産性向上部分の検証と位置づけ、進めていきたいと思います。今日は春川氏にも参加いただいてます。春川さん、何かありますか?」リーダーが春川に話を振るが、「よろしくお願いします、春川です。何かと言われましても特にありません」とそっけなく答えた。場の空気が引き締まるが、リーダーは顔色変えずに会を進めた。「まずは見てもらいたい」とリーダーは言い、各自の手元に用意されたディスプレイにデータを表示させた。その平均線が引かれたデータの棒グラフは、大きくその線を上回っていた。「各自、この結果の要因を述べてもらうが、下田氏から、お願いします」と注目を下田氏に集めた。「えー、今期は、上旬にバブルジュニアものを日別でジャンルに変化を付け観てもらいました。上旬で大体の、まぁいわゆる好みってやつが把握できました。中旬は日別で数年前の人気作をジャンルに分けて観てもらい、上旬で得た好みの再検証と、時代別の差を検証してですね。下旬は最新作で好みの最終検証と、ジャンルに対しての依存性をも確認できました。えーっと、データの方はお任せしてあるので、私からは以上です」とこくりと頭を下げた。「ちょっと、待って下さい、データは私も以前から共有してましたが、まさかこれを?」と春川は立ち上がった。「ええ、しかし、まだ終わってませんので着席いただけますか」とリーダーは春川を見て言った。座る春川を確認したリーダーは、城山に向かって「では、お願いします」そう言った。「えー、今期は、前回見られた、被験者の左脳波数値と生産性向上の比例を確実にするため、右脳波を上昇させるリアルゾンを一度も服用させていません。また、左脳波の振れ幅と下田氏の言う依存性を結びつけるデータも採取できました」と述べた上で、ディスプレイをスワイプし、左脳波データと日別生産性データを表示させた。それを見てリーダーは「素晴らしい一致だ。さて、この結果を見て春川氏、まだ考えが変わらない、そう言いきれますか?」と春川に問いを投げた。「まだ、分かりません、まだ分かりませんが、結果は素直に認めます」春川は、そう譲歩するのが精一杯だった。「では、今後のスケジュールを確認します。はっきり言うと、反転です。生産性の上昇には成功した、がその逆説を考え、実施し、根拠とデータが一致して、初めて真の成功と言える。あと、春川氏、すぐに私の元へ来るように。これは影野代表からの伝言です。以上、各自解散」とリーダーは言い、連なるようにチームは部屋を出て行った。部屋には城山氏、それと春川氏がぽつんと座るだけだった。そこに月音が静寂を破り飛び込んでくる。「先生、どうでしたか?あの人は、主人は治るんですか?来月には出られるんですよね?」涙を流し月音はそう言った。「そうなるといい、私も強く思っています。しかし、明日からは、」と、下を向く城山に、月音は「明日から何ですか?明日から何か始まるんですか?」そう迫る。「リアルゾンを飲み続けていただきます。ご主人さんには辛い思いをさせてしまうかもしれません。しかし非現実型鬱病を治す、そのきっかけになるはずです。私を、ご主人を信じて下さい」そう言い、城山は顔を上げた。月音には城山の顔が、大きくなった涙で見えない。月音は肩を掴まれる。「きっと良くなりますよ」ともう一人の医師は言い、部屋を出て行った。仕事を終えた私は、夕食を考えていた。鍋にしよう。キムチ鍋だ。白菜、ニラ、ネギ、人参、玉ねぎ、シメジ、エノキ、すべて、ざく切りでいいか。豆腐を手の平で切り、豚肉を入れ煮込んでいく。アク取りは奉行の仕事、しっかりと。味付けは味噌とキムチを作る素。分量は大体でいい。ただ、月音が辛いの苦手だから、それだけは注意が必要だ。二十分もあれば作れる。だから私は鍋が好きだ。でも片付けは苦手だ。こんな鍋でも、みんな美味しいと言ってくれる。だから鍋が好きなのか?そもそも、みんな鍋が好きなのか?まあ、どうでもいいか。空腹だ。月音の合図を待って食べるか。野菜から食べよう。またこの痛み、左手にチクッと。何だろういつも感じるこの痛みは。
そんな夕食時に、もう一人の医師、春川は仙台に戻っていた。春川は影野と対峙していた。人肌の柔らかさ、紫色のそれで全身を覆う。視界が開けるのは、目の前のスクリーンを上部へ稼働させた時のみ。常に脳波を受信する為の装置と、そこから生えた管。内部は完全殺菌仕様。空間には一体のAIRと無数の注射用液体。「あなた方がいうAVR4とは違い、私が現場で見てきたものは、こんなものでした」と春川は影野に向かって言った。「さすが、春川さん、見てそれだけ理解するとは。ではもっと詳しく説明しましょうか?おそらく答えはNOでしょう。それでも構わない。データを見ただろう?頼む、お願いだ、エリを助けてやってくれないか。この通りだ」と影野は深く頭を下げた。その光景、感情は、ついさっき感じたもの。そう月音の涙、それそのものだった。春川の心は揺らぐ、誰もいない公園でシーソーに乗っているように。「分かりました、やります。しかし質問があります。その回答次第では撤回させていただきます」と条件を出した。「なにかね?」頭を上げた影野は聞く。「被験者が見るもの、エリさんがあの中で見るものが何かです」と春川が質問の内容を伝えた。「では、こちらからも条件を出そう。その見るものとやらを、私から聞くか、技術チームから聞くかだ」影野が提示した選択肢に、春川の答えは明白だった。「影野さん、エリさんの父である、あなたから聞きたい」分かった、そう言って影野は言い口を開いた「エリが見るもの、それは現実だ、あの中で見るものは現実だよ」と父の顔で言った。その顔を見て春川は決意し、影野と別れ、自身の病院に戻った。
春川クリニック、その名前が付けられた病院に向かうAUTOBUSの中に、夫の航と、隣で手を握る妻のエリがいた。「嫌ならすぐに帰って来なよ」「航はいつもそう言うけど、私は頑張る。当分会えないけど、たくさんキスしたから、我慢できる、よ、ね」と肩まである金髪を、バスの窓から吹き込んでくる風に靡かせ、エリは言った。マイナンバーカードで、支払いを済ませた二人は、春川の部屋に向かった。春川のドアを前にして「失礼します」と入ろうとするエリに、「おい、普通ノックするだろ」と航が付いて、部屋に入る。待ってたわよ、そう言って春川は、二人に座る間を与えず、エレベーターに乗せ、二十回以上あるそれの十九階にある、一室へ案内した。そこには、スリープモードにされた一体のAIRともう一体のAVR4が存在していた。すぐに見て取れるそれらの脇に、銀色のワゴンに置かれた注射の針と様々な色の液体。航は絶句した。エリは頬のニキビの辺りを引っ掻き、「何か痛そう~」と言った。では、と言い春川は二人をエレベーターに乗せ、三人は部屋に戻ってきた。椅子に座った三人の内、二人は質問し、もう一人はそれに答えていた。一頻り抽象的な話しが終わったところで、春川は本題に入る。「それでは、今回の治療について説明していきます」その春川の真剣な表情に、エリは航を作り笑顔で見つめ、小さく頷いた。「今まで何度も話してきたけれども、お二人に子供ができないのは、エリさんの卵子が抱える問題にあります。それは現在の技術を持ってしても取り出せない上に受精できない。今まで、少ないと表現をしてきたけれど、、、つまりエリさんには、ほとんどの周期で排卵が無いの。いや、何度か採取寸前、人口受精寸前までいきながら失敗に終わったことを加味すると、まるで子を授かることを拒否している。そう仮説を立てざるを得ません。定期を刻む生理がある以上、必ずどこかで可能性はある。しかし現実はそうではない。現在、エリさんのように苦しんでいる患者さんはたくさんいるわ。しかし、そこにはメスは届かない。不妊の原因の多くに心的ショックが影響していると、我々の学会では発表されている。今までのカウンセリングで話せていない何か、そんな何かが影響している。ある人が、ファストフード店でこんな話をしていたの。AとZ。エリさん、あなたをAとしたなら。Zという遠い場所に何か終い込んでいない?あなたにとってZとは何?Zを嫌い?見たくもない?思い出したくもない?それとも逆かしら。Zに何を隠しているの?見られたくないの?大切な思い出なの?好きなの?大好きなんでしょ?その人はこうも言ってたわ。AとZは表裏一体でケンカもするけど背中を合わせた仲良しでもある。直線的に考える依存を解き放てば、それは円として考えられることに気付ける。そうすれば一番近くで手を繋げる。そうそれを彼はAとZの接続、そう呼んでいたわ。今日からの入院はエリさん、そして航さん、それを私と、ポエムさんがサポートします。実は広島でも、もう一体のAVR4を使って治療はされているの。その患者さんも依存に苦しんでいた。生産性の向上というデータを半信半疑で現場まで行って、自分なりに見て来たわ。そこでは思考を操作することで生産性を上げていた。でも、ここでは、それはしない。操作ではなく、考え、気付き、変わること、そしてZを探す。その過程で生産性の向上を目指します。エリさん、航さん、ポエムさん、この三名は会話できるわ。しかし、エリさん自らモニターを開いた時のみ。エリさんAVRを使ったことはあるわね。AVR4は脳に反応するVR。その感覚は覆われている全身に及ぶわ。思い通りの世界に何を見ても構わない。最初は気楽にやってみて。どお?納得した?もしできたなら、ポエムさんへの個人情報並びに症例予測情報の開示にサインして下さい」そう話し終えて、バインダーに挟まった書類をエリと航に渡した。そして差し出された一本の万年筆に、吸い寄せられるように伸びる手と手。その二つの意思はゆっくり優しく触れ合った。万年筆から出る程よく藍色をしたインクが、白いキャンバスに濡れ落ちていく。しかし、エリの番になって、万年筆はインクの放出を途中で止めた。「先生、あの、」エリが言う。「どうしました?」春川の優しい表情にエリは三つほどお願いをした。そのお願いは了承され、エリは最後まで筆先を滑らすことができた。
3 交差する夢
キムチ鍋を食べた次の日から、私は同じ夢を見ていた。それは複数の断片的な夢。断片は断片を接続し、短く終わるものもあれば、長く続くものもあった。白い軽自動車のハンドルを握る私。渋滞に焦っている。目的地は会社だ。リエノスカイフーズに向かっている。最後の信号が赤く光り、私はタバコを吸っている。車内の時計は出社時間に達した。タバコを消し、最後の信号が青になり、安心する。手元の電波時計より車内のデジタル時計は五分進めてある。機械に囲まれ、団体競技に参加させられ息苦しくてしょうがない。私はデッキに上がり、監督をしている。機械は壊れない。壊れないから私を褒める者もいない。我慢できなくなってタバコを吸っている。一斉に警報が鳴る。鳴るはずの無い警報に驚き、機械は壊れた。機械は直さず捨てた。直すより作られる方が早く、次のが送られてくる。静かになり、一個、また一個作られる弁当に、目線が追い付かない。私は開放され、IRにいた。タバコを吹かすが、決まって負ける。裸で帰るマンションの明かりは灯っていない。安心してリビングに入る。気配を感じ、電気を付ける。食卓を囲むのは月音と真と三つの影。五人は私がさっきまで見ていた弁当を食べている。私が目線を弁当に向けた瞬間、逃げるように出て行く三人の影。大きい影は、三日月のような口をして笑っているようだ。目隠しされた小さな二つの影。三人の影は、外に出て立派な車に乗り空中を飛び、去っていく。運転席には黒より黒い影が一瞬見えた。風も星も月も無い空に車は小さくなっていく。突風が吹いたわけでもないのに、一つの光が車から落ちた。流れ星のように、見た訳でなく、見えた。私は走っていた。でも息切れと、裸を理由にして、歩いて引き返した。流れ星が落ちた場所は分かっていた。でも私は幾つでも理由を作って、止まらない涙を納得させる。泣きべそかいて、家に戻った。月音は涙を拭いてくれた。転んだの?と聞き、消毒液を探す。真は、私と月音をおかずに、真っ白な米を食べている。だだそれだけをしっかり考え食べている。私はそれで空腹が満腹になり、ベッドで横になる。壁が目の前に見える。いつの間にか、青く憂鬱な色に塗り替えられていた。月音だろう、足を重ねてくる。月音の顔を確認して安心する。抱き合う二人。何でだろう、月音の顔がよく見えない。とうとう冷たい涙で月音が見えなくなってしまった。
そんな夢を見た日も、いつのもように月音は覗き込んでくる。何だかしゃべっている。最初は笑いながら。そして口角が下がってきて、最後はなぜか泣き出した。月音は冷たい涙を流し、私はそれを暖かく感じた。時間が来たのか、月音はより大きな涙を溢す。シャッターが閉まる寸前に私は二言だけ言えた。「俺も泣いていいか」「助けてくれ月音」やっと言えた。でもそれだけ、それだけしかまだ言えなかった。シャッターは閉まり、月音は出て行った。城山がモニタリングする機械が異常値を検知し警報を鳴らす。城山が設定した上限値を、左右とも振り切っている。エレベーターの中で貧乏揺すりをする城山。その出入口で貧乏揺すりをする月音。固い扉が開き、二人の感情が交差する。「まあ、一度部屋で話しましょう」城山の言葉で扉は閉められた。二人は椅子に座り、向き合った。「奥様、見てください、これは昨夜の脳波データです。上限値には達していないものの、それに近い数値を左右に繰り返しています。リアルゾンの影響で、右に寄ってはいますが、最近は、特に眠っている時に、この現象が起こっています。恐らく、ご主人は夢で、夢の中で依存と戦っている。私はデータを見てそう感じます。何か心当たりはないでしょうか?」城山は何か聞き出そうとした。「今日なんですけど、あの人言ったんです、泣いていいか?助けてくれって。初めてです、そんなこと言われるの。先生、私、あの人を助けてあげたい。力を貸してください。息子にも言われました。私はあの人を救えない、お願いです、先生助けて下さい」月音の叫びに城山は「分かりました、生産性を示すデータを下げましょう。今月行っている検証を成立させるためにはそれしかありません。そして、来月二週間をかけて脳波を左に戻しましょう。AVRから出て、通常病棟に移りましょう。ただし脳波データは測定させてください」そう城山は決断を口にした。「でも先生、それって、偽造ってことじゃ、、、」「そうなりますかね、データ的には。しかし、私はリエノの人間ではありません。AVR開発チームの一員として求められていたこと、そうそれは脳波を受信すること、そしてそれを数値化すること。脳波を一度、受け取る場所、彼らはそれを家と呼んでいた。システムは既に完成している。私は医者に戻る」そう決意の心境を語った。
一方仙台でも、「じゃあ、行ってくるね」とZを探す旅に出る決意をエリはしていた。それからエリの数日の間は、驚きの連続だった。思いのままに広がる空間。碧衣を思えば、碧衣と食事ができ、航を思えば、航と眠れる。テニスをすれば、腕や足に筋肉痛を感じた。そう楽しい事ばかりに時間を使い、エリなりに使い方を理解していった。エリがシャッターを開けた、息切れをして、「ねえ、航、姉さん来てないんだ、さっき食事したんだけど、いつもチクッとするんだよね、やっぱ、刺されてんだよね」「そう、エリが食べたものと同じ成分の液体をAIRが選んで、そこの窪みに装填して、ぶちゅーっとね」「じゃあ、やっぱ、この筋肉痛も?」「うん、動いてたよ、足とか腕の方とか、うにょーって」と航は教えた。「私も入ってみたい、そうすれば、そうすれば、航とあんなことや、こんなこと、うふ、ねえ、航ちゃん分かる」とポエムが言う。「分かりません」と航は断る。「エリちゃんなら分かるわよね?」「分かるような、でも腹立つんですけど」とエリは言った。コンコンとノックの音がして「碧衣、入りまーす!!」と、しーんとした廊下に声を響かせ、碧衣が部屋に入ってきた。「おー碧姉、来たか」エリが限られた視線をやる。つい航は碧衣の胸に目線をやり、ポエムは航の視線を追う。嫉妬した様子でポエムは「碧衣さん、今日も素敵ですね。特にそのワンピースとか、あと、その巨乳とか」「ありがとうございます。お気に入りの服なんです」と碧衣は笑顔で言った。エリが春川にお願いした一つが、碧衣だった。「碧姉、もしかして、デート?」「私に彼氏がいないことは、エリあなたは知ってるでしょ。いやまって、さすがエリ。私デートしてきました」姉妹のやりとりにポエムはつい「どういうこと?」「はい、わたくし、合同デジタルお見合いに行ってまいりました。」「おぉーついに行ってきたんだね。それで碧姉その服を、納得」「そうよ、私も妹に負けてられない、それが私の今の原動力」「で、で、どうだった?」「私、真剣だったんです、目を見ていろんな方とお話ししたんですけど、なぜかみなさんと目線が合わなくて。みなさん下を見るんです」「なんでー、残念」「でも、負けません、次の予約してまいりました」とおでこに手をやる碧衣を見てポエムは心で「この子もまた」と呟いた。「どこ行くんですか?」と航が、出て行くポエムに聞いた。「お化粧直しよ」と答えたポエムは春川と話していた。「先生、この数分の生産性データと脳波のデータを確認できますか?」「少し待って下さい、確認します」「おそらく、上がって、下がって、また上がって、なんとなくですが」「今、表示できました。残念ながら、生産性データには変化は見られません。しかし、脳波はポエムさんの言う通り、激しい山が三回見られます。何か分かったのですか?」「Zは分かりませんが、そこに辿り着く道が見えた気がします。」「その道とは?」「はい、たぶん、それは過去の出来事。彼女の後悔。生い立ち上、彼女は過去を振り返ることをしない。いや、振り返る悲しみに耐えうる依存先がなかった。やっと見つけたそれは、碧衣さんや航さん。エリさんは二人に依存した。でもその満足感が悲しみに勝ってしまっている。Zを見つけるには、やはり、エリさんが自分で歩み寄る、それしかありません。私はそれを意識して会話をしてみます」「そうですか、分かりました。引き続き、お願いします」と春川が言い、ポエムは頷いた。エリの元に戻ったポエムは「今日の化粧は乗りが悪いわ」といって腰を据え、「エリちゃん、あなたはパパ、ママのこと、どう思ってるの?」とメスを入れる。「それは、」碧衣と航が言う。「ママはね」「ママはね」と二度続けて出るママ。「なんで、そんなこと聞くの?」エリはポエムに聞く。「いや、気になってね。私は今、嬉しい、でも、悲しい。エリさん、言ってる意味が分かる?私はあなたのパパやママの気持ちで聞いたの。私にはそれができる。だから、その感想を言った」そうポエムが言った夜から、エリは決まった夢を見続けた。
その夢もまた、断片的で複数からなり、長短の接続をしていた。ABCDEFG私は歌っている。それは古い歌。その先が思い出せない。古いから思い出せないの?それとも思い出したくないの?航、教えて。ABC、、。ここまでしか歌えないや。碧姉、教えて。ABCDEF、、その先何だっけ、私も知らない。本当に知らないの?教えてよ、お願い。この声は誰?悲しい声。ママの声?違う、ママじゃない。知りたい。声の持ち主?歌の続き?最後まで教えてくれるの?何か嫌だ。やっぱり嫌だ。ママ、教えてよ。ママはしゃべらない。何で黙ってるの?死んじゃったから?あんなに話せたのに?そうか、お腹すいてるの?卵焼きなら作れるよ。なんだ、お腹いっぱいか。だから食べてくれないんだ。だからしゃべらないんだ。美味しいよエリ。なんだ、しゃべれるんだ。美味しいなら食べてよ。エリ、ママは食べないし、歌も教えない。なんで?なんでそうなるの。ママも苦しいから、あなたをこんなにして。ほら聞こえない?悲しい歌が。聞こえないし、聞きたくない。ちゃんと聞きなさい、ママが教えるのはそれだけ。航、碧姉、どういうこと?こっちだよ。航がCの上に立ってる。暗い。よく見えない。怖い。足元にABCと音符が並ぶ。よしこれに乗って行こう。なんだ、楽しい。トランポリンみたい。到着、Cまで来たよ航。なんで褒めてくれないの?私に子供ができないから?エリこっちだよ。Fで碧衣が青いワンピースを着て呼んでる。碧姉、今そっちへ行くよ。D、E、F。楽しい。碧姉、何で褒めてくれないの?本当の姉妹じゃないから?そうか、私、Gまで歌えるんだ。碧姉、行ってくる。ABCDEFG。その先なんだっけ。苦しい。誰か助けて。悲しい歌が聞こえる。嫌だ、そっちに行きたくない。戻っていいよね、姉さん。碧姉、何、その羽。青い翼。航、何、その赤い翼。やだ、やめて。あっちじゃない。私はそっちに帰りたい。二人とも泣いてるの?その翼で私を運んでくれるんじゃなかったの?エリ、照らしてあげるから行きなさい。ママ、怖くなったら抱きしめてくれる?はいはい。じゃあ、行ってみる。航、碧姉、ママ、見ててね。絶対だよ。明るい、Gの次が見える。そうだ、Gの次はH、その次はIだ。そうだ、これは楽しい歌。トランポリンに行く時に一緒に歌った歌。Gでいつも躓く私に優しい声がその先を教えてくれた。その歌だ。その声だ。よし、順調だ。ここは、V。勝利のVだ。大丈夫、三人共、見ててくれてる。本当に見てる?振り返っていい?ダメこっちに来て。あなたは誰?でもその声は、私の妹。そっちに行っていいの?今そっちへ行くよ。懐かしい。いろいろごめんね。でも、先生と約束したから、いつかきっと会える。残りはYとZ。分かったよ、こんなに優しい声が、こんなに悲しく聞こえるのか。パパそっちに行くね。パパ、泣かないで、私も泣きたい。ここは、いつも連れて行ってくれたモール。私が見ていたのはパパの顔。いつも無口なパパが笑ったり、優しかったり、手を繋いでくれたり、歌ったり。そんなパパの顔を見るのが嬉しくて、無理言ってた。ごめんね。最後はパパ、せーので一緒に行こう。行くよ、ファーストフード店。パパごめんね。ごめんね。ごめんね。最後の日、私言えなかった。聞いてもらえなかった。でも、諦めないで何度も何度も言ったんだよ、パパに会いたいって、会わせてって。この気持ち、伝えられなかったこと今も後悔してる。だから今、一緒に泣こう。足りない、もっと強く抱きしめて。お願いもっと強く抱きしめて。離れたくない。離れたくない。約束して、いつかきっと会えるって。お願い約束して。ありがとうパパ、約束したからね。それまで死んじゃ嫌だよ。
4 家と三つの部屋
その日、エリがZに辿り着いた日、春川の部屋に設置された計器はしっかりと反応した。翌日、エリは春川にAVRから出ることを要請し了承された。退院の日、「なんだか寂しいわね。航ちゃんともう会えなくなるなんて」「その航ちゃんってのが聞けなることを僕は嬉しく思います」「航ちゃん、そんな、また照れちゃって」「いや、照れてません、僕はこれから忙しいんですから」「そうね、いろいろ、忙しいわね、羨ましい」「あの、でも本当にありがとうございました」とポエムと航の別れを見て、号泣し鼻をすすっている碧衣。春川もこの時は笑い、そんなみんなを見てエリは「よし、がんばるぞ」と鼻の下をくいくいっとした。
城山クリニックではもう一人の被験者の開放許可を待っていた。影野の部屋と繋がっているセキュリティー回線の受話器を持ち話をする城山を祈るように見つめる月音。月音も知らない映画のワンシーンのように親指を立てる城山。「やったー」セキュリティーの意味を無くす月音の声。受話器を置いた城山はハイタッチを求める月音を躱し、腕を組んだ。「奥さん、おめでとうございます。あれから出られます。ご主人は出られるんです」「はい、これでやっと、あの人の手を握り看病ができます」「でも奥さん、本当にこれでよかったんでしょうかね。私は医師として、ご主人と奥さんをずっと診てきて、複雑な思いです。2025年でしたか、ここにご主人が運ばれてきたのは。その時に発見したのが左脳と右脳の間にできた小さな腫瘍。その腫瘍はメスの届かない場所にありながら、命を落とすことはしない大きさ。ご主人は、固い意志かのように眠っていました。私は脳波を取り続けたが、何もできなかった。毎日毎日、手を摩る奥さんに答えるかのように目覚めたのが2030年の春」「はい、あの時の、あの人の、悔しそうな顔は、忘れません。なんで起こした、そんな顔でした」「そうでしたか、それは辛かったですね」「はい、でもそんな顔をする気持ちも分かります。長く連れ添っていますから」「そんな時でしたか、リエノから連絡があったのは。その内容は、私が参加していた、AVRのプロジェクトに、ご主人を被験者としてはどうか、という依頼でした。なぜ奥様は同意したのですか?」「現実と夢ですかね、主人が以前から言ってた言葉です。主人も同意したのは、たぶんその為です。主人は元々、リエノ系列の社員でしたから、私と真はリエノから年金のような支援を受けていました。それを知った上で同意した。最後にあの人は大きな夢を見たかった、そうなのかもしれません」「夢は終わりませんよ、これからリハビリです。衰弱した筋力もAVR内での運動で、少し回復しています。がんばりましょう」「はい、でも、あの人が素直に言う事を聞くか不安ですね」「確かにそうかもしれません」二人は希望と不安が入り交る、笑顔を浮かべた。
そうして私は、現実だけを見ていられた部屋から、過去が襲い掛かってくる部屋へ移された。紫に変色した左腕と焦点の合わない目線、起き上がることの出来ない筋力、それでもリハビリをするかどうか、私は悩んでいた。城山の部屋で、月音は「やっぱり、まだ動こうとしません」「そうですか、一般病棟に移って二か月が経ちますね。でもまあ根気よくいきましょう。そう、私はこれから東京に行ってきます。何かあれば連絡してください」そう城山は月音に言い、病院を後にした。
東京では再び会合が行われていた。壇上に立つ影野、その横に城山がいて、会場は大きな拍手でAVR4の功績が称えられた。席に戻った城山は春川を見つけ会釈した。影野は壇上である映像を全員に見せた。その映像は、ある程度大きな密閉された空間。そこには二体のAVR4が置かれている。空間の外からEMPを照射させる影野が映っていた。生産性を上げる為に作られた道具は、無音無痛のまま葬られた。会場にはざわつきが起こり、その後続いた防護服を纏った作業員が二体のAVR4を高圧高温にて跡形もなく処分する映像を見ていなかった。宮野はその光景を見て「これだから」と呟いた。影野は、映像とざわつきが終わるのを待って、「ご覧の通り、AVR4は処分した。なぜなら我々が必要としていた家は、完成したのだ」と宣言した。会場から「代表、その家とは何なのですか」と質問が飛んだ。「家とは何か、か。城山氏に一日かけて説明してもらうこともできるが、もっと簡単に私なりの説明をしよう。では、今発言してくれたそこの彼に聞く。今日の夕食は何が食べたい?」「そうですね、夕時は冷えてきましたから、おでんですかね」「目の前には、おでんが映る。ではそこに奥さんか誰かがいるかな?」「いえ、私は独身なので、でも、おでんといえば、私にとっては母の味。母がいます」「目の前にはおでん、それに母の姿が映る。もう分かったかね。君が考えたことは何だって映し出される。それが家だ」「はい、わかり、ました」「本題に戻そう。家を使って、AVR3を使って、現実を作る。しかし、AVR3の完成には必要なものがある。それは倫理だ。先ほど彼に話してもらったのは、過去の記憶から呼び出した未来。我々が提供するのは現実。彼が考えた、おでんと母、既にそれは現実ではないのだ。どこの現在軸を倫理として映像化するか、AIに委ねる。その現在軸の位置をどうAIに優先させるか、残りの課題はそれだけだ。さあ、ここからは宮野氏、統計チーム、分析チーム、君たちの出番だ」影野は最後にそう語り、会を解散させ、宮野と両チームを別室へ招き入れた。その部屋で、両チームはデータのスタンバイをし、影野と宮野は語り始めた。「どうかな、宮野さん」「どうかなと言われましてもね。AVR2で採用した倫理、それは利用履歴だった。言い換えれば、過去から見る現在。私は好きですよ、このシステム。しかし、人口減少は止まらない。超現実主義社会では、過去というものは、依存を呼び、生産性を著しく下げる。そう考えれば、家に必要なのは三つの部屋。その部屋には過去、現在、未来が入っていて、AIは、その時の利用者の依存から現在軸を判断し、その逆を部屋から出せばいい。そうですね、うまく言えないですが、依存を利用したクロスオーバー。うーん、言葉を崩して言うと、軸を未来に置き、空想ばかり追いかけ過去を馬鹿にする奴には、過去の部屋からAIがものを出す。逆に、軸を過去に置き、未来を悲観するする奴には、未来の部屋からものを出す。しっかり、現在が見れてる奴は勝手に現在を見る。どうですかね。分かりにくいですかね?」「いや、むしろ分かりやすい。広島で採取した依存と生産性データを元に、統計予測データを出してくれるか、あとそれを年代別で」と影野は両チームに指示した。分析チームのリーダーは「はい、三十年先、予測データ出ました。日本の総人口は緩やかに上昇しています。しかし、平均寿命が低下しています。年代別で見れば、高齢者人口の緩やかな減少、若年者はそれを上回る増加が見て取れます。ただ、その差が僅かなため、総人口の増加は緩やかに留まっている、それに加えて平均寿命の低下のデータ、この両方に反映された模様です」と分析した。「ありがとう、両チーム共、席を外してくれ。ああ、後で構わんから、反転データを持って来てくれ」そう影野が言うと、両チームのメンバー達は部屋から出て行った。二人になった部屋で宮野は「影野さん、政界からのお誘いを断ったらしいですね」「はい、興味がありません」「不倫もできないから?」「これは、一本取られました。偶然か、必然か。宮野さん、あなた私の過去を?」「ええ、少しだけ」「そうですか、私の耳から離れないんですよ、エリが泣き叫ぶ声が。私は死んだ妻と不倫をしていたんです。ある晩も密会をしていましてね、妻が帰宅した時に、帰っているはずのない旦那が一人で寝ていたそうです。不倫が発覚したと言う妻と二人の子供を、私は引き取った。離婚届にサインしてもらうと言い、妻はファストフード店に旦那を呼び出し、離婚は成立した。私はその時、必死でした。パパに会いたい、パパに会わせて、パパと話がしたい、そう泣き叫ぶエリを引き留めるのにね。その声が今でも耳から離れない。罰が当たったかのように死んだ妻。私との子を一人と残すことなく。生前、妻は言ってました。元旦那に、いつか謝りたいと」「まさか、その方は、広島の?」「はい、向こうは知りませんが、彼は我々の会社の元社員です」「そこで知ってしまった」「はい。そして彼は、その後に倒れた。その時から私の罪滅ぼしは、城山氏を通して、始まった。昏睡から彼を救ったのは、私と城山の技術ではなく、奥さんの介抱だった、そう聞いています。しかし、目覚めた彼の脳波は安定せず、何時また昏睡に陥るか分からない状態と城山氏から聞きました」「そこで考えたのが、AVR4。AVR3ではなく4を先に」「はい。彼が苦しんでいるように、エリもまた、苦しんでいましたから」「だから、4は二体だけ」「はい。しかし彼は、自らAVR4から出た。エリが自ら出たように」「しかしということは、彼は治っていない」「そう、結果的に私は何もできなかった」「はたして、それはどうでしょうか。自ら出た、彼は現実を見て何かをやろうとしているのかもしれません。そうそれは夢、みたいなもの」「夢か、こんな機械に囲まれて、言うことではありませんね」と影野は笑い、「私もあなたも古い人間ってことです」そう言って宮野も笑ってしまった。
城山が東京から帰って来てから十月十日、月音が城山の部屋に飛び込んできた。「先生、大変です。あの人が大変なんです」「ちょっと、奥さん落ち着いてください、何が大変なのですか?」「あの人が、起き上がったんです。いや、言いすぎました、寝返りを打ったんです。まるで起き上がりたい、そんな感じで」「で、どうなりました?」「大声で泣き出して、そして先生に報告を」「ついに動こうとしたんですね。そして声を上げた。あれから出てきて、ずっと沈黙でしたからね。奥様、いい方に考えましょう。ご主人のサポートお願いしますね」「はい、分かりました」そんな二人の変な管理の元、私はリハビリを開始した。五年以上、暖かいものに浸っていた私は、夢を見れた。そこは夢を見ている、それだけで生きていられた。悲痛な叫び声が聞こえて、暗い道を明るい方へと背中を押される。抵抗してみたが、叫び声は大きくなる。明るいから手が伸び、一気に引きずり出された。夢を見る仕事は終わり、現実で現実を見る仕事が始まる。そう、それは死なない為に生きることではなく、死ぬ為に生きること。
一か月が過ぎ、ようやく月音の声が聞こえる。何を言っているか意味が分からない。しかし、声のする方へ顔を向けることができるようになった。三か月後、座ることができ、空腹を感じることができた。左腕に刺された針は、徐々に本数が減り、唾液で溶かし、胃に流し込むことで栄養を補っていく。半年後、ベッドに座り、垂直に垂らした足が、床を感じる。八か月後、月音の声も、言葉として理解でき始める。「こっちこっち」と手を広げる月音に向かって、ベッドに手を着きながら、ゆっくりと、歩数も増えてきた。体が動くことで腹が減り、針は最後に一本になった。
理解できはじめた月音の言葉も、理解できなくなる。「なんで?なんで?」月音の口癖だ。しかし、「なんで?もう歩けるよ」この言葉の意味が分からない。生きることを願う月音と死ぬ為に生きる私。女の月音、男の私。女と男では根本的に違うのか。私は今日も、月音のお世話を、ありがとうと表現できず、余計だと言ってしまう。私は三年待たずして、赤子とは別の道を再び歩もうとしていた。次の日も、またその次の日も、私は月音に罵声を浴びせ、また一歩、また一歩、赤子とは別の道を進んで行く。「最後の一本を抜いてくれ」私はそれが言えなかった。現実だけを見ているつもりが、もう過去を連れてきている。左腕に刺さった一本の針、それを抜いて欲しいが、どうしても言えない。この状況はいつも私が苦しんできた過去そのもの。死ぬ為に始めた生きることは一年が経過した。
一本の針に、それを抜いてくれと言えない過去に、依存が始まった。そんな時、月音は言ってくれた。「いいよ、最後くらい、私を頼ってくれて」と。「なんで私に頼らないの?」ではなく「頼ってくれていいよ」そう言ってくれた。「私も今まで、ずっとあなたに頼ってきた。なんで、なんでといつも答えをあなたに求めていた。ずっとあなたを見てきて、やっと分かった気がするの。もう、お互いに意地を張るのはやめにしない」その月音の言葉に、私が見たものは空だった。厚く覆われた黒い雲が割れ、集まりだったそれは、次第に小さくなり、いつの間にか消え、青い空が広がっていった。「月音、明日、これ抜いてもらおう」私はやっと言えた。「そうね」と月音がそれを見て言い、一気に引き抜いた。「痛っちぃ」私は思わず言った。「あのね、明日じゃダメなの。明日になれば、私もあなたも考えが変わるでしょ」とドヤ顔する月音を見て思わず笑ってしまった。「月音、ありがとう」五年以上続いた、張り詰めた空気が、ゆっくりと優しくなる。「なあ、月音、聞いてくれるか?」「なんで?」「またそうやって、聞いてくれませんか、月音様」「よろしい、何なりと」「俺、歩けるかな?」「さあね、でも、諦めたらそこで休憩ですよって聞いたことない?」「今度は監督気取りか?そういうんじゃなくて」「休憩しながら、やっていこう。あなたはいつもそう、これと決めたらそれしか見えない。一生懸命やって、結果が違えば、すぐに後悔する。休憩したら、そろそろ」「でもな」月音は私の頭を一度チョップして、その後なでてくれた。「でもじゃない、はいでしょ」「はい、か」「そう、はいと言いなさい」「あのな、月音、俺、歩けるかな?」「何が言いたいの?はっきりすっきり言ってみなよ」「俺な、もうすぐ死ぬと思う」「なんで?」「また、なんで?か、分かるんだよ」「なんで?」「だから分かるんだ」「なんで?」「嫌でも分かるんだ。お前や先生を見てると。大きくなってるんだろ、俺の腫瘍」「なんで?あなたはいつも気付かなくていいことまで気付いて、私に押し付けてくる」「待て、そんなに泣くな」「だって」「だってじゃない、はいだろ」「言えないそんなこと」「言いたくないって言うんだろ?」「うん」「お前はいつも素直で、分かりやすくて、ばかで、不思議なやつだったよ。やっぱりそうなんだな」黙って下を向く月音。「なあ、月音、こっちを見ろ。この最後の抗生剤を抜いて、あとどれだけもつかな、俺の命」「分からない」「そうだな、お前は医者じゃないもんな。なあ、月音、俺、歩けるかな?」「どうして?」「おまえにした、離婚した時の話を憶えてるか?ファーストフード店の二階で、俺は、金という現実を取って、夢という二人の子を失った」「うん、憶えてる」「なあ、月音、俺は二人に会いたい。会いたいんだ。会って、最後に一緒に流すはずだった涙を、きつく抱き合って三人で流したい。なあ、月音、俺、歩けるかな」「歩いてその先に、もう一人、いや、真も入れて五人じゃダメ?私だって明日死ぬかもしれなよ」「そうだな、ごめんな、こんな話して」「ううん、そう、昔話した、ロボットに自分の人格を、あれ?何だっけ」「自分の思考をデータにしてロボットに組み込めば、永遠に生きられるんじゃって話か?」「そうそう、それ。懐かしいね」「懐かしいけど、もう今ならできるんじゃないか?」「そうかもね、で、組み込むには、三人の血縁者の指紋認証が必要で」「指紋認証をクリアしたら、最後にパスワードの入力が必要。そしてお前がロボットとなった俺にキスをして後悔するって話」「若かったね、二人とも。まだ真が生まれる前だよ」「そうだな、確かに懐かしい」「で、あの時言ってた、パスワード、変わってないの?」「え、一番星か?」「うん、父さんの影響でって言ってた、一番星」「おとんは死んだ。それに俺だって、あの頃から変わった。パスワードだって変わるさ」「えー何?教えて、というか教えろ」「なんで?」「なんでじゃなくて、教えて下さい」「嫌だ、心がこもっていない」「教えないと、ちゅっちゅっ星人に変身するぞ」「まて、この年でそれは本当に嫌だ」「じゅあ、教えて」「分かったよ。パスワードはXXXだよ」「変態!」そう会話が成立し、夜が更けて行った。一人用の白いベッドは、ずしっと沈み、月音は私の足に、月音のそれを重ねてくる。いつも壁を見てきた私は、しょうがなく月音の方を向きキスをした。
次の日から私は一歩、また一歩、短い坂道をゆっくりと歩み始めた。歩き始めた私は、ある病室に目が行く。ひと歩きして病室に戻った私は「なあ、月音、あれなんだ?最近よく見るようになった、患者さんが付けてるあのヘルメットみたいなやつ」「あぁ、あれは、AVR3っていうらしいよ」「AVR3っていうのか。で、どんなんだ?」「真が前の型を持ってたから、私も使ったことあるけど、その新型は、なんでも、考えたことを映すことができるんだって」「そうか、あれか」「うん、あなたが入ってたやつに似てるね」「俺が今、あれを付けたらどうかな?」「やめてよ、ほんと」「あぁ、分かってる。それに俺は今、しっかり現実を見てる」「そうね、歩けるようになったしね」「なあ、月音、タバコが吸いたい」「あのね、」月音は上を向き涙をこらえる。「いいよ。買ってきてあげる。高いんだよ、今いくらか知ってるの?」と言い後ろを向き肩を震わせた。「そうだよな、六年以上吸ってないもんな。あ、そうだ月音、AVR4でタバコを吸ってみるっていうのはどうだ?あー、どっちか欲しいな」と言い私は振り返った月音の顔をそっと見てみた。大きいとは言えない目をさらに細くしている。「それ、見えてるの?」手を振ってみた。「見えてます。しっかり見えてます」と二度言った。威嚇を続ける月音に負け「分かったよ、日記帳を買ってきて」私はそう譲歩した。「変態」なぜかそう言われた。
次の日、月音はエコバックから、日記帳と鉛筆、タバコと簡易灰皿を出し、テーブルに並べた。違和感がいくつかあった。日記帳の表紙には私と月音、真の三人が映った写真が貼ってある。いつ貼ったのかは分からないが、これは月音のデコ好きという性格で解決できた。しかし鉛筆はなぜ6Bなのか?4Bくらいが書きやすいと思うのだが。そんなことより、二十本入りのいつものタバコとその灰を入れる皿。しかしそれとセットのものが、確実に無い。それを月音は握っていた。ライターを掲げるその姿は、お前は女神像かとツッコんで欲しげだ。しかしツッコんでしまったら私の負けだ。ここは沈黙をもってそれにあてた。「あれ?」月音が言い、私は勝ちを確信し「どういう意味ですか?」そう尋ねた。「私は不自由の女神。あなたには、このライターを一日一回だけ貸してあげましょう。そう、それは何を意味するか、分かりますか?」「はい、分かります。いくらでもタバコが吸えます」「え、え、待って、一日一回って言ったでしょ」「はい、確かにそうおっしゃいました。しかしタバコがこちらにあってはいくらでも吸えます」今にも崩れ落ちそうな女神様はこう私を諭してくれた。「あなたの心は汚れてござる。ん?あなたの心は汚れていらっしゃいます。ん?」アドリブに弱い月音様に私はこう誓った「一日一本しか吸いません。ですからそのライターを私に」「あなたはかつて一日二十本以上吸っていました。そのあなたを信じろと?」「はい、月音様、私を信じて下さい」「ならぬ、ん?けしからん、ん?いや、もういいや疲れた。はいどうぞ」とライターを渡してくれた。私はその日から真のブログに似せた日記を付け始めた。昔から鬱病には日光がいいと、先生は何度も言っていたので、タバコは昼食後、屋上に上がり一本だけ吸うことにした。
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月音が買ってきてくれたタバコを吸う。毎日、一本ずつ。一本目は酷く不味い。そう、私が少年の頃、父に隠れて母が吸っていたタバコを頂戴して吸った、あの味にそっくりだ。父さんには無口を与えてもらった。母さんには家族を支える大変さを教わった。それを良しと思う時もあれば逆もあった。思考は倫理で判断され行動を生んだ。変えよう、変わろうなどしてみたが、それは無理だった。父さんの倫理、母さんの倫理、それで育てられた私の思考は、二人が作ってくれた人工知能。それに気付くまで随分時間が掛かってしまったよ。人間ははみな人工知能を持っている。世界は千差万別の人工知能で溢れている。それは共鳴もすれば争いも起こる。そこには幸せもあるが血や涙もある。幸せを見たい、苦しみから目を背けたい、そんな一心で、人工知能はAIと名付けられた人工知能を作る。まるでそれは自分で判断し傷付くことから逃れるかのよう。AIは傷付きながら現実を映し出す。AIは生産性を生むが、死にも立ち会う。判断を任されたAIは、私が涙を流すのと同じように、涙を流し続けている。宮野さん、あなたが言う通りだった。AIは涙を流し続けていました。今日の空は曇っていて、今にも雨が降り出しそうだ。なぜか歌謡曲が聞こえてくる。しかし少しの日差しを浴びるとPOPな曲に変わる。私のAIは実に不思議だ。曇っている時はタバコは美味いのに、晴れれば何も感じない。やはり私のAIは不思議だ。三日目にもなると、タバコへの依存が始まりひどく後悔し始めた。原付に乗ってくれたあの子は元気にしているだろうか。そう思ってみたけど、何も感じなかった。過去の依存先だからか、今のタバコの味が勝っている。今日のタバコの味は複雑だ。美味いとマズイがケンカをしている、そんな味だ。どっちの味覚を優先させていいのか分からなかった。五日目のそれを、晴れたこの空の元、吸うべきか悩んでいた。結局、吸ってしまった。次の日、大切な何かを無くした。空は声を上げ泣き叫び、大粒の涙を流している。私はそれに気付かず煙を舞い上げたが、それが目に入り涙が出てきた。七日目、屋上でのこれを注意されるが、構わず吸った。次の日、宇宙人に出会う。その人は、私の言葉を理解できないが、何か言いたげで、そっとタバコを差し出していた。私はまだ残っていると見せたが、差し出した手はそのままだ。空気が読めないようだ。その人は次の日、子供を連れてきた。その子はタバコを差し出す母の手を、タバコもろ共、叩き落とした。九日目の今日は、やけに霧が出ている。大切な何かを探すには、丁度いい天候だ。彷徨い続け、疲れ果てた。今日は良く眠れそうだ。十日目、寝坊した。長い現実を夢として見た気がする。私は月音の手の暖かさで目が覚めた。次の日、雲が早く流れる風が吹いていた。煙は一瞬で流されていく。日記の表紙に目が行き、真の言葉を思い出す。大丈夫か?大丈夫だよ。いつか交わした言葉だ。月音は知らないが、その会話には先があった。「イジメられてないか?」「パパ、イジメはもう死語だよ」その時思った。ネアやネオはいずれ無くなると。十二本吸ったか、この日は屋上に行くのが面倒だった。でも月音が背中を押す。いや、手を差し出している。その手に気付いた。宇宙人は月音だったと。十三日目、月音は私の刺さった棘を抜いてくれた。月音は次の日も、また次の日も、背中を押したり、手を引いたりしてくれた。何とか屋上に辿り着けた。十六日目、月音の話す宇宙語が理解できた。私は月音と語り明かした。銀河で生まれたAIは私のそれとは違っていた。言葉が理解できるまで、噛み合わない感じを不快に思ったことも多々あった。しかし、銀河のAIは私に足りないものを、いつも補っていてくれた。気付くのがまた遅かった。後悔は感謝に変わったのに。十七日目。私は月音の力を借りずに屋上まで行けた。銀河のAIは涙を流して、タバコを買ってきたに違いない。私はそれを、思いっきり吸い込む。今日はいろいろ書けそうだ。まずはこの快感について。ずっと昔に聞いたことがある。絶頂の快感より、大きい快感。それは死で味わう快感だと。疑っていたが、本当にそうかもしれない。すべてが許すことができ、また理解できる。黒、白、赤、青、いろんな色の糸で絡まって見えない中身が優しい空間で簡単に解かれていく。実に快感だ。生産性の快感と死の快感。甲乙付け難い。人はその間、つまり生きている間は、辛さを感じるようにできている。辛いが故に争いをする。しかし、そんなAとZを繋げることは簡単にできるのか?やはり簡単だ。一枚の紙にAからZまで書いて、円くしてぱちんと止めればいい。そう簡単にエリに会わせてくれないかな。明日はきっと会える。屋上に行かなくてもエリに会える。必ず会える。そして時間差で一緒に涙を流せる。こんなことを書いたら月音は嫉妬の涙を流すかもしれないな。だからまずは月音に言おう。月音、本当にありがとう。あなたのその考えてない考えているところが、私は大好きだった。真、手のやける宇宙人を頼むな。君は現実を上手く見ることができる。ボケをボケと思っていないママにツッコミを頼む。エリ、やっぱり最後に会いたかった。そして、ごめんな、ありがとう、そう言って抱き合い泣きたかった。体温を感じてな。萌、エリ姉さんと仲良くやってるか?君は私の記憶が無いだろう。でも私にはそれがある。君はエリ姉さんの引っ付き虫だったよ。君にも言っておくよ、大きくしてやれなくてごめんな。そんな私を許してくれるなら、最後は会いに来てくれな。なあ、月音、お前のおかげで私は死ぬ為に生きることができたよ。最後の最後まで、このばかやろうを信じ支えてくれた。なあ、月音、五人が揃って泣いてくれたら最高だ。なあ、月音、五人がもし冷たい涙を流していたなら、その銀河のAIで、暖かい涙にしてくれよ。そう、そのパスワードは「XXX」だ。いいか「XXX」だぞ。なあ、月音、お前が買ってきてくれたタバコ、あと三本だよ。大事に吸うよ。そうそう、そろそろ次のを買ってきておいてくれるか。頼むな。
エリは航に子を預け、春川の元へ急ぐ。「先生、二つの約束を、お願いします、早く教えてください」「エリさん、早く広島に行って。広島の城山クリニックよ、早く」影野が叫ぶ、「データ分析チーム、即座に広島へ飛べ」次のタバコを買いに出ていた月音に城山は「奥様、すぐに戻ってきて下さい。あと、息子さんにも連絡を」エコバッグを落とした月音は真に「すぐに帰って来れる?今、どこの山で写真撮ってるの?」「近くの山だから、すぐに帰れるよ、すぐに行くから父さんをお願い」私の周りには、月音、真、エリ、分析チームの順で集まってきた。城山はその度に、私の状況を説明した。「抗生剤を止めたことで脳の腫瘍が腫れ上がり、今はしばらくの昏睡に陥ってます。しかし、それは、申し上げにくいのですが、確実に破裂し死に至るでしょう」最後に到着した分析チームのリーダーは、月音、真、エリと同じ質問をした。「先生、あとどれだけ生きていられますか?」と。城山はまた同じように、首を左右に振った。重い空気の空間で何もできない悲しさを、月音は耐えられなかった。その空間で、手にしていなかったものを、手当たり次第に、そこにヒントがあり私が生き返るかもしれない、そんな希望を持って、弄っていく。しかし、その病室にはそれ程多くのものはない。ライターを手に取り、火を付けてみる。陽炎が見えるが普通のライターだ。タバコの箱を開けてみる。確かに三本だけ残っている。灰皿を開けてみる。思わず月音は手を口元にあてた。月音の涙がいっそう大きくなる。そこには吸われて小さくなった吸殻と灰ではなく、吸われることなく、大事そうに並べられたタバコが十七本入っていた。日記の端を切って、「お前のせいじゃないよ」そうかかれてあった。その切れ端を手に日記を開いて見る。一ページの右下の欠片だった。「ばか、最初から吸う気が無いんなら、言うな、高いんだぞ」月音は泣き崩れた。歯を食いしばる真。月音の肩にそっと手をやるエリ。城山は「なぜ、分析チームがここに?」とリーダーに尋ねた。「AVR3とモニターを置いてみんな出て行ってくれ」リーダーはそう言い、メンバーを外に出した。続けて城山に向かい「大丈夫ですから、席を」と言った。頭を一度だけ下げ、城山も出て行った。月音は睨みつけて「あなたはまだこの人に何かしようと」そう泣き叫んだ。「はい、それが私の役目」そう言ってポケットからUSBを取り出し三人に見せた。「これはここにいる全員を結ぶデータ。父さんが、ここで見た夢」「父さん?」エリが顔を見上げる。「姉さん、私です。萌です」エリは萌に吸い寄せられ「あなた、萌なのね。ずっとずっと会いたかったんだよ。もっとちゃんと顔を見せて。もっときつく抱きしめて」二人はきつく、時間を埋め合わすように抱き締め合った。「AVR3、モニター、USB、それを使って何をするんですか?」真が萌に聞いた。「はい、父さんが見た夢をみんなで見ませんか?今ならまだそれが可能です。おそらく。」考え込む真。顔を上げ、ようやく発した言葉は「やってみますか」そう真は言った。準備を始めた萌に、月音は立ち上がり、「もしかしたら、ロックがかかっている、そんな気がする」そう言った。「もう少し、お待ちください。これで、モニターに夢が映し出せるはずです。今の微弱な脳波を拾うことができれば、今のビジョンも投影可能かもしれませんし」と言って萌は準備を整えた。「では起動します」萌が言い、四人はモニターを覗き込んだ。「ダメです、月音さんの言う通りロックされています。ですが三人の指紋認証を要求しています」「それは、あなた達、三人の子の認証で解けるはずよ。以前に話したことがあってね。だから分かるの。真からお願い」「うん」「次はエリさんお願い」「はい」「それと萌さん、お願いします」「分かりました」そうして三人の手がモニターに触れた。「ダメです、解除させません」萌がそう言って月音を見た。四人は絶望した。「ねえ、やっぱり夢は甘くない。それより、みんなでこの日記を読まない?」そう月音がいった。日記を中心に円を象った四人はゆっくりと読み始めた。「だから大丈夫だって言ったでしょ」真が言う。「私も同じ気持ちだったよ」エリが言う。「私のことも書いてくれてる」萌が言う。「私も大好きだよ」月音が言う。「ねえ、母さん、ここ五人が揃ってって書いてあるよ」と真が言った。「え?なんで?昔、話した内容だと子供達三人って。まさか、あなた、私もそこに入れてくれるの?私を認めてくれたってこと?」三人は声を揃えて「やってみよう」そう言い、月音も「やってみよう」そう言って再び、真、エリ、萌の順で指をあて、そして月音がゆっくりと、手を近づけ「宇宙人のパワーを見せてやる」そう言って指をあてた。「解除できました」「できたー」「やっぱり」「みたか私のパワーを」と四人は喜び暖かい涙を流した。その瞬間、私は確かに月音、エリ、萌、そして真を感じ、この上ない快感に包まれた。やっと言える。やっと言える。「みんな、ごめんな。そしてありがとう」やっと叶った、やっと叶った夢というやつが。「ダメです、モニターに乱れが。時間がありません。パスワードを要求しています。早く」「それは大丈夫パスワードは「XXX」よ」「入力します。XXX」モニターには「未承認」その文字が浮かび上がった。「なんで?私がやってみるパスワードは確かにXXX」モニターには「未承認」という文字。「もうやめよう」真が言う。「そうね、日記に書いてあった。五人揃って泣いてくれたら最高って。みんな、抱き締めてあげましょう。このばかやろうを抱き締めてあげて見送ってあげましょう」月音の最後の優しさで、私は五人で抱き合い涙を流すことができ、満たされた。そしてモニターは無口のまま消えてしまった。